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2021-05

鬼滅は万人に向くか? - 2020.11.23 Mon

吉田秋生さんの「歌詩川百景」の続きのはずだったのですが、今回も鬼滅です・・・


 前回は吉田秋生さんの新作の記事を書こうと思っていたのですが、大ブームの「鬼滅の刃」に引っ張られて「どこが歌詩川百景だよ・・・?」っていう感じになっちゃいました。前回の記事では観てもいない作品で記事を書くのは如何なものかとも思いました。しかし、先日たまたま「鬼滅の刃」のアニメを観ることができました。
映画館へたまたま行くわけがないんでテレビアニメ版なんですが、フジテレビ系でテレビアニメ版の22話~26話を一挙放送(一度に5話ぶっ続け)したのを録画してくれてました。フジテレビが「初見で劇場版を観る鬼滅シロウト」向けに予習のための再放送です。どうせなら1話から観たいって思ったりもしますが、ウチの録画番組の選考担当が「話題のアニメだから録画しといたよ」程度の気持ちちだったので仕方ありません。自分もそこまで観たいか?っていう気持ちもありますし・・・
こーいう場合はダイジェストを映画公開特番っぽく放送するのがセオリーなんでしょうが、細工や番宣抜きで直前の回をフルで観せるのは制作サイドのこだわりや自信が感じられます。逆に映画版の「無限列車編」はテレビシリーズの27話に相当する所からいきなり始まるようなので、「鬼滅の刃」のトリセツ(事前情報)を読んでいないシロートにはキビシイ映画なのかもしれません。
自分は「鬼滅の刃」のテレビアニメも最終回まで放送されていて、その中の「無限列車編」が劇場アニメにリメイクされたんだと思っていました。実際はテレビアニメの26話までが「・・・立志編?」で27話以降がそのまま劇場版「無限列車編」のようです。キメハラの人たちにとっては「そんなの知ってるよ」なんでしょうが、じつは去年(2019年)の3月にテレビアニメ放送直前にテレビ版1話~5話の部分を「鬼滅の刃 兄妹の絆」というタイトルで2週間限定で劇場公開していました。これは制作サイドが事前に大ヒットするという確信がなければできないことですね。
劇場版の「無限列車編」は「事前の情報がゼロでも十分に楽しめる作品」と言われていますが、本当にそうでしょうか? 今回は自分が観たテレビ版の22話~26話から想像する「鬼滅の刃」を検証してみたいと思います。(検証するとか言うからキメハラたちの餌食になっちゃうんですよね・・・)


 これ以降の記事はネタバレ覚悟になりますので、ハヤリとかブームに流されるわけではなく「偶然ふらっと映画館で観る」という作戦の方はネタバレ注意です。しかし通常の日本人の10分の1以下の情報しか持っていないので、ネタバレにすらなっていないとの指摘はスルーしてください。
どれくらいの情報量かといえば、主人公のお友達のイノシシ君は本当のイノシシの妖怪だと思ってました。録画した同居人も主人公の名前はヤイバ君だと思っていたらしいんですが(自分がウソを教えてた)とっくに炭治郎だと知っていました。しかしふたりとも炭治郎の名字が読めませんでした。
個性的な人名と耽美的?な漢字の取り合わせは、アニメだと文字がイメージできなくて文章だと音がイメージできません。キャラが浸透すれば「個性的なキャラ」となるんでしょうが、一見さん泣かせではあります。アニメの作中で登場人物のフルネームは毛筆体でインサートする手法はジャンプ的説明という感じですが、カットインが速すぎて読めません・・・
そもそも公開作品というものは情報を公開しなければ興味を持ってもらえないという事と、劇場でビックリさせたいから内緒にしておいてという事のジレンマがあります。極端に言えば「面白かった」というのは最大のネタばらしです。それでも制作サイドは事前に情報がない人向けに大まかな説明を入れるルールがありました。その手順は本気のファンにとってはテンポを悪くするだけなので、できれば制作サイドとしては省きたいんですよね。
「鬼滅の刃」は原作のマンガが累計1億部突破、映画の観客数が1500万人越え、マスコミが連日特集を組んでいる状態です。これだけの露出がある場合は「キメツって何?」という人を掘り起こす必要は全くありません。「ちゃんと事前に予習復習してから映画館へ来いよな」っていうスタンスで、その救済のためにテレビアニメ一挙放送があったんでしょう。
映画館を出て「何やってんのか、全然解んなかった」って叫ぶのは、多くのファンに対して失礼な行為です。Jリーグの会場で「海外サッカーに比べたら日本のサッカーなんてお遊戯だよ」っていっちゃうくらい無礼者です。最近は見かけませんが浦和レッズの試合でもバルサやマンUのレプリカを着て「俺は本気(海外サッカー通)のサッカーファンだから・・・」って態度で観戦している人たちが結構いました。そーいうJリーグを舐めきった態度の“サッカーファン”を“サポーター”は後ろから張り倒したいって思っています。クラブに迷惑がかかるから誰も張り倒さないんですけどね。
同じように自分はなるべく映画館で映画を観ないようにしています。「イノシシ君じゃねぇよ」って怒られそうだから・・・ あそこは映画ファンが集う場所だから、つまらない映画をつまらない顔で観ているのは失礼だと思いますから。つまらない前提なのもアレなんだけど・・・
あくまでもテレビアニメ版の22話~26話の5話分を観ただけの感想なので、「ちゃんと1話から見ろ」とか「原作を読め」などの意見はごもっともです。でも、話題になっているから観たいけど「自分だけ楽しめなかったらどうしよう」とか「これって・・・そんなに面白いか・・・?」って不安に思う人は多いはずです。1500万人が観たといっても1億1000万人は観ていません。それでいうと120万人しか観ていない「ヴァイオレット・エヴァガーデン」なんか誰も観ていない計算になります。自分としては京アニのアニメのほうがちょっと興味があるんですけどね・・・
ここまで「鬼滅の刃」を全マスコミがPRしているんだから、そりゃサブカルに関心が薄い人でも観たくなるのでしょう。スポーツ観戦が苦手な人でもオリンピックは観ちゃうモンです。個人のサイトの中では批判的な意見や感想もあるんだろうけど、メディア関係には絶賛以外の声が聞こえません。
自分のメディアのメインはAMラジオですが、「鬼滅の刃」に対するコメントは「大ブームになってる」と「ボクも観ました、読みました」と「ボクはまだ観てないんですよ」ばっかりです。
普通だったら「わたし子供と観に行ったんですけど全然入れませんでした・・・」とか「なんかスゲーつまんなかった」っていうコメントを言う人はいません。(言うと他の番組からも干されるのか?)


 22話~26話は鬼とのバトルエピソードが全くないターンでした。22話は前回まで鬼と戦っていただろうエピソードがあって、そこで鬼殺隊の先輩たちに妹が鬼であることがバレてみんなから追求されるシーンです。通称“お白州のシーン”です。23話~25話は回復のための療養所のシーン、全集中やら何やらの特訓シーンなどのコミカル・パートで、26話は一転して無限城での鬼チームの下弦の鬼のリストラシーン。4人がクビになって唯一残された麗夢が劇場版で敵対する悪役です。26話を観ていた時はこのいキャラは女性なんだと思ってましたが、ウィキで裏取りしていたら麗夢は優男風って書いてありました。(声優は平川大輔さん)
自分が得た最初の鬼滅情報はTBSラジオの「たまむすび」のブルボン小林さんのコーナーにて「鬼滅の刃」を紹介でした。そこでキーワードだったのが「鬼殺隊は福利厚生が行き届いたホワイト企業で鬼チームはブラック企業」と「戦いで受けたダメージをしっかり回復させるだけの回がある」ということでした。自分が観た22話~26話はブルボン小林さんの語る鬼滅の刃のオススメポイントだけで構成されてます。ラジオでははぼーっと聴いていただけでしたが、アニメを観れば言わんとしていたことが理解できます。このラジオの情報と22話~26話を観た情報しかないので、結局は自分の鬼滅評はブルボン小林さんの鬼滅評との答え合わせなんです。
自分がテレビ版で観たかったのは「呼吸」と「全集中」についてのシーンでした。これらの単語は流行語のように巷に溢れていますが、本編を知らないのでイマイチ使い方がわかりません。わかっても使わない言葉なんですけどね・・・
23話~25話は治療と特訓のエピソードでした。詳しく説明されていないんですが、寝てる間も全集中するという「全集中の呼吸」を24時間続けるという特訓と、カップシャッフルみたいなゲームっぽい特訓や鬼ごっこトレーニングなど。
これらは主人公が努力して強さを身につけるという少年ジャンプの理念が影響されているエピソードですが、ちょっとだけ違和感がありました。この作品のキモは主人公の炭治郎クンの実直さや努力なんでしょうね。最近のアニメやマンガにみられる捻くれた主人公や無意味に暗い主人公ではありません。集英社のワークスで作られた健全な少年ヒーロー像なのは好感がもてます。とくにアニメの主人公は理屈っぽいと共感しにくい傾向にあります。しかし理屈っぽくアニメを観ている「自称オタク」の方々は理屈っぽさがアイデンティティなのでダークなキャラのほうが本物志向だと思っていたりします。アニメの本物って何だよ・・・?
違和感はあったのは真面目で努力家、そして妹思いていう設定の部分ではありません。努力すれば工夫しなくても誰もが上達するというスキルアップの表現です。「頑張って努力すれば、できなかったことができるようになる」というのは全ての人が頑張れば公平に強くなれるロジックです。このロジックで作られているのがRPGゲームの「経験値」という謎コマンドです。それまでのゲームはアクションにしろ格闘にしろ100回やっても上手くならない人は1面すらクリアできませんでした。その点RPG ゲームは創意や工夫よりも時間を掛ければ経験値が上がって強くなるというシステムです。
頑張ったら達成するというのは公平なようでいて、主人公が考えたり学んだりはいらないのか?って思う部分もあります。『主人公ができなかったことが3話分頑張ったらできるようになった。』というのも主人公の成長なんでしょうけど、観ていても「ああっ経験値が上がったのね」くらいの感動しか思えませんでした。ここは本来ならば「侍ジャイアンツ」の番場蛮のように苦悩しながら必殺技を獲得していくのがジャンプ魂だと思います。そこには発想の転換やひらめきなどが視聴者や読者に主人公の成長を納得させるギミックが必ずありました。
「これをやりなさい」っていう指示に対して、疑わずにこなすことで成長する主人公っていうのがモヤモヤします。それが今風の良い主人公像なんでしょうか? 逆に必殺技の種類も水の魔法や火の魔法風の魔法など、L1ボタンでリストを呼び出して○ボタンで決定する印象です。それも「メラ」「メラミ」「メラゾーマ」「メラガイアー」という感じに後半になると使える技が増えるのかな・・・


 ブルボン小林さんが押していた部分でイマイチ共感できなかったのが「シリアスなドラマだけどギャグ要素満載・・・」ていう部分のギャグのノリでした。マンガやアニメにギャグを入れるのは正しいですし、面白くする努力はもっとも尊い努力です。しかし「鬼滅の刃」のギャグパートは3回目から観ていて面倒くさくなってきました。
同じパターンで頭身がギャグになったり「ヤダヤダヤダ・・・」を繰り返したり、早口でまくし立てたりが自分は苦手なんです。シナリオの中のセリフにギャグが入っているのは問題ないんですが、ギャグパートで笑って下さいになるのはキツいんですよね。とくにイノシシでないほうのお友達のシーンがいちいちギャグパートで食傷気味でした。
斬首や惨殺のシーンとバランスをとる意味でギャグシーンは重要なんでしょう。バランスとは殺戮を正当化するのではなくて、陰湿になりすぎないようにお笑い要素で明暗を調整するってことです。
そもそもギャグの時は顔がギャグ顔に変わらないと笑えない人もいますし、小さい子には解りやすくコントシーンにしなきゃ笑えないんでしょう。それとこーいうギャグの見せ方が好きなアニメファンも多いんでしょうから、この技法が間違っているとは思いません。
ジャンプの編集部の方針として水を飲むシーンでは「喉がカラカラだ・・・」(水を飲む理由の説明)「このコップの水を飲もう」(コップの描写は中に水が入っていると説明)「ゴクゴクゴク・・・」(水を飲む描写を擬音で説明)「はぁ~水を飲むと生き返る~」(今、水を飲んだことの説明)ってなります。水を飲むカットでどれだけのコマ数を使ってるんだよって感じですよね。このジャンプ流の丁寧に説明されたギャグシーンが耳障りに感じちゃいます。パターンギャグとかしつこく続くギャグが苦手な方は劇場版は辛いかもしれません。ギャグのセンスは正解とか不正解ではなくて肌似合うか合わないかだから一番我慢できないのがこの部分だったりします。
これらは23話~25話を観ただけでの感想なのですが、万人(1500万人)に受け入れられている作品なので、前記のとおりにこの鬼滅ブームでマンガやアニメ業界が活性化されるのだったら、それは何よりなことです。
何よりも国民の12%が劇場へ行ったのですから、面白い作品ということに偽りはありません。こんな些細な部分をあげつらったところで、作品の価値を下げる要素にはならないでしょう。
23話~25話のストーリーは全体の構成の中では凪(なぎ)の部分だったんだと思います。自分が観た22話~26話では回想シーンでちょこっとだけでした。それこそ水の呼吸のシーンは1回もありませんでした。わざと見せないのか?まだ水の呼吸を習得していないのか?本気でわかりません・・・
じつは22話のお白州シーンと26話の無限城シーンは本面のなかでもかなり需要な回で、箸休め的な特訓パートとは空気が違っていました。この2話は対称になっていて「鬼滅の刃」のリアルな評価ができるパートとだと思います。

次回の記事は22話&26話から「鬼滅の刃」を考えるです。(たぶん・・・)


「ほぉ」って思ったら押してね

キメハラに負けない - 2020.11.10 Tue

吉田秋生さんの「歌詩川百景」です。

 コロナ過の中、マンガ界では「鬼滅の刃」が大ヒットしていまして、どこぞの GO TO・・・よりも経済効果を発揮しています。少年マンガはたまに新社屋が建つほどのヒット作が生まれるので、出版不況でも出版社はマンガがやめられないんでしょうね。自分はまだマンガを未読なので、ネタバレ情報をシャットダウンしていたんですが、とうとう主人公の名前がヤイバ君ではないことを知っちゃいました。あと妹が咥えている猿ぐつわがプレイではないことも知りました。(いや、プレイだろ・・・?)
自分は子供の頃、アニメの宇宙人の侵略や特撮の秘密結社との戦い、大型ヒーローと大型怪獣のプロレスなどに、もの凄い違和感を感じていました。「男子たる者、地球も守るヒーローを目指すべき」っていう空気(男の子は戦っていれば良いんだろというやっつけ感)がありました。自分は幼稚園時代も地球を守る気はさらさらないし、争わない人生を目指していましたから。
ウルトラマン的な何かを観なくなったのは小学校1年生でした。同じくドラえもん的な何かも観なくなって、親に「少年ジャンプ」を買ってもらうよう交渉しました。「小遣いは要らないから毎週ジャンプを買ってくれ」っていう感じです。もともと小学館の「幼稚園」という子供騙しな知育雑誌を買ってもらってたんですが、小学生になり購入する雑誌が「小学1年生」になりました。そこに載っていた「ドラえもん」があまりにも幼稚なので、こんなのよりもジャンプがいいって母親に言ってみたんです。そうしたら「小学1年生」が「少年ジャンプ」にあっさり変わりました。
母親は「女性ナンタラ・・・」とかの婦人雑誌を大量に購読していたんで、ついでに「少年ジャンプ」を買うくらいどってことなかったんでしょう。当時の「少年ジャンプ」は先行していた「マガジン」や「サンデー」に追いつけ追い越せ状態で、仮定した読者が低学年よりも中高生なだった印象でした。
マンガ雑誌のメリットは善悪硬軟のあらゆるマンガが同列で読めることです。好きなジャンルも興味ないテーマのマンガも全部2~3回は読み返していました。もったいないからね・・・

 自分は戦うストーリーが苦手だったんではなくて、理不尽な悪者(宇宙人、怪獣、侵略者、謎の組織、暴君など)と戦うストーリーが苦手だったんです。すっかりアニメに興味が失せていたと思います。本当は「キャンディ・キャンディ」とか観たかったんですが、当時は女の子向けアニメをお茶の間で観るのはかなり勇気が必要でした。家にテレビが1台しか無かったから・・・
あまり男の子向けアニメを観なくなったんですが、なぜか父親に勧められて観た「宇宙戦艦ヤマト(初代)」のドラマ性に感動して、アニメには面白いアニメとそーでもないアニメがあるって気がつきました。「ヤマト」は宇宙人だし侵略者だしでスラーは暴君です。しかし、そーいうベクトルと違うストーリーを描こうとしているのが子供にも伝わりました。だからこそあれだけのアニメブームが起きたんでしょう。調子に乗って作られた続編の映画は・・・ただの宇宙人の侵略戦争でした。
その後放送された「機動戦士ガンダム(初代)」も連邦とジオンがどっちもどっちっていう立ち位置で面白かったんですよね。ガンダムも調子に乗って作られた続編は、登場人物が主張する「正しさ」の戦いになっちゃってう~んって感じになっちゃいました・・・
当時、ガキンチョながら自分は正義対悪意というオトナ向けな難しいテーマを掲げているる作品って幼稚な感じがしていました。それこそ好きだ嫌いだ言ってる少女マンガのほうが、よっぽどオトナなテーマだと思っていました。だいたい「意見(利害)が合わないから戦う(侵略する)」っていうのは幼稚園児の行動パターンじゃないですか!
あと、動物や謎のマスコットが人間する設定も『コドモ向けの符号』なので敬遠してきました。当然ながらファンタジーやRPGなタイプの作品群にはあまり手が伸びません。
話を「鬼滅の刃」に戻すと、さすがジャンプっていう感想しかありません。作品の概要や映画予告、タイアップの主題歌を唱ってるお姉さんとか、ヒットする要素がてんこ盛りですよね。利権的にまったく蚊帳の外のはずの日本テレビの朝の番組でさえ、連日「鬼滅、鬼滅・・・」って言っています。最近知った情報では「どうやら呼吸が重要なアイテムらしい・・・」っていうことです。情報のでどころはスーパーGT(自動車レース)の日産・ニスモGTR23号車のウイング翼版に「呼吸」って書いてあったのを実況が解説していました。
そーいえば「ジョジョ」のスタンドや「HUNTER×HUNTER」の念能力、「デス・ノート」のノートも、読んでいないのでよく判っていません。「ONE PIECE」は第1話だけは当時のジャンプで読んだのですが、他のキャラにもゴムゴムな能力と同等な特技があるって知ったのも数年前でした。

 鬼や超能力が出てくる作品を否定するわけではなくて、単に自分の思考が女子向けなだけです。ストーリーに男のロマンや正義、成功、達成などにも、あんまり興味がないだけです。ましてや人の感情がストーリーだと思っていますから宇宙人や未来人、妖怪、悪魔・・・などにも興味が湧きません。
以前、高橋留美子先生の「犬夜叉」を「らんま1/2」のノリで読み始めましたらコテコテの妖怪ファンタジーでした。自分としては頑張って最終刊まで読んだのですが、殺生丸との対決あたりから「もう仲良くしなよ・・・」って思っちゃいました。桔梗とかごめの三角関係コメディだったらどんなに感情移入できたかって思います。たぶん最後に読んだ本格ファンタジ?ですね・・・
しかし「ONE PIECE」や「進撃の巨人」もちろん「鬼滅の刃」も大ヒットしてマンガ業界が潤うのはとてもいいことです。出版不況の中「鬼滅の刃」の売り上げのおかげでウオズミ アミさんの単行本が出版されるというのは良い循環になると思います。キメハラはどーかと思いますが、みんな頑張って「鬼滅の刃」を買いましょう・・・
ちょっと気になるのは作者の方に次回作があるのか?っていうことです。作者は女性マンガ家らしいのですが、いろいろシークレットな部分も多いようなのですよね。佐山聡さんが突然タイガーマスクで現れたように、作家性よりもプロジェクト有りきのマンガ家さんっていう印象が強いです。
「鋼の錬金術師」の荒川弘さんのように謎のベールに包まれていても、マンガ家として実存しているのなら次回作もヒットするでしょう。だけど「進撃の巨人」や「鬼滅の刃」のような作品を描いちゃうと、次回作もプロジェクトありきじゃないと作れなくならないか心配です。


 本題の「歌詩川百景」ですが、すっかり「鬼滅の刃」に引っ張られてしまったので続きは次回になります。


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ハシゴを外すマンガ - 2020.10.31 Sat

麻生みことさんの「大正ロマンポルノ」です。

 前回の記事から投稿間隔が思いっきり空いちゃいました。本来ならば深海 紺さんの「春とみどり」を題材にした記事をアップするよていでした。実際に書いたのですが、どーにもこーにも納得できる文章になりませんでした。何しろ単行本の裏表紙に『センシティブ同居譚』とか『せつない同居ストーリー』っていうキャッチが書いてあるほどのセンシティブな作品です。
本当は「春とみどり」のその2、その3まで書いたのですが、その文章が「自分が中のコンプライアンスに抵触していないか?」とか「特定の人にとっては不快な文章になっていないか?」といった不安がよぎりました。そもそもブログなんてものは「自分のブログで書けや・・・」っていうフレーズがあるくらい無責任なジャンルです。しかし作品を批評することと批難することは別です。ストーリーの中の登場人物を批評することと、登場人物のような人たちを批判することも別なことです。
端的にいえば「発達障害のキャラとセンシティブなキャラの違い」についてでした。作品全体を発達障害として捉えると非常に説明しやすいのですが、それこそ実際に発達障害の方や関係者に対して理解される文章が書けているのか?という自問もあります。
正直、記事は書いたのですが正誤性のジャッジが自分でできませんでした。それほど迷うのなら取りあえずボツにするのが賢明だろうという判断で、今回書いた記事は公開しませんでした。そのために9月は記事が飛んじゃったのですが、一応は下調べとか裏取り的なことをしながら記事にしているので書き始めると他のテーマにならないので・・・
今年は大林宣彦さんの追悼記事を書いた時も、思うところがあってボツにしました。大林監督には生前並々ならぬ思いがあったのが裏目にでてしまいました。ちょっと追悼に書くような内容ではなくなってしまったので、喪が明けてからって思っていたら「この意見って世間に伝わるか?」という自問からボツにしました。



 記事の間隔が空いちゃった言い訳の文章なんですが、せっかくだからマンガの話もサクっと書いてみます。今回取り上げるのは麻生みことさんの短編作品「大正ロマンポルノ」です。この作品は白泉社のちょいお姉さん少女マンガ誌の「メロディー」にて、3話集中連載された作品の単行本化です。
「メロディー」といえば麻生みことさんの出世作の「そこをなんとか」が掲載されていたマンガ誌なのでホームグラウンドです。しかし、最近は「麻生みことさんって講談社の人」っていうイメージが強かったです。自分は講談社で描いていた京都の手工業たちをテーマにした「路地恋花」から評価を見直したって感じだったので、講談社の編集部がグッドジョブだったと勘ぐっています。講談社では「good!アフタヌーン」という青年誌掲載だったので、麻生みことさんのマンガの文法が少女マンガよりも少年マンガ向きだったのでしょう。
実際に麻生みことさんを認識したのは「そこをなんとか」の単行本を買い続けてからでした。この作品は司法試験に受かったが就職が決まらずキャバ嬢をしていた主人公の楽子が、いっちょ前の弁護士に成長していくリーガルコメディです。少女マンガとしは展開が男っぽくて、むしろ青年誌の「アフタヌーン」に向く内容だと思っていました。逆に「路地恋花」のほうが白泉社の少女マンガ誌っぽくて、青年誌で少女マンガの文法の作品が異色だった感じでした。編集はミスマッチを狙ったのかもしれませんが「異色なマンガ家だなあ」っていう印象でしかありませんでした。
初期の麻生みことさんの代表作は「天然素材でいこう」だと思います。良くも悪くも「LALA」っぽい印象の少女マンガでした。(掲載作品も読者も理屈っぽいのが白泉社の特徴・・・?)
とても理屈っぽい?弁護士マンガの「そこをなんとか」は、「天然素材・・・」の作者という認識がなく読み始めました。基本的に1話完結エピソードで「事件の依頼~弁護~完結」というルーチンがベースの構成です。少年マンガの主流は連載中のエピソードを途切れさせないマンガなので、4月号は3回のオモテの攻撃、5月号は4回のウラの守備っていう感じのダラダラした作品が普通です。少女マンガの連載作品もそーいう傾向はあるんですが、少女マンガには「オール読み切り」っていう文化があります。4月号に掲載された作品は4月号だけ読んだとしても楽しめる構成です。4月号だけで試合が終了するような1話完結型の作品も多い印象です。

 1話で完結させるためには起承転結をきっちり押さえるのがセオリーです。(あくまでもセオリーであって応用や例外はたくさんあります・・・)“起”や“承”はシリーズものではどうとでもなりますが、ストーリーのキモの部分になる“転”と“結”はアイデアのストックが必要です。
起承転結は4コママンガの描き方として紹介されてますが、起承転結と4コママンガはあんまり関係ありません。昔のマンガの先生たちが「起・承・転・結」という4文字と4コママンガを「ちょうど4つなので収まりがいい」と思ったんでしょう。もちろん無理して起のコマとか結のコマとか当てはめても構わないのですが、型にこだわるよりもテンポや流れを重視したほうが読みやすくなると思われます。
マンガで重要なのは「オチ」の部分だと思われています。「オチ」というのは関西で発祥した会話中で相手を笑かすための文法です。「4コママンガは起承転結」と同じように「マンガはオチ」というのも昔のマンガ入門書の作った幻想です。連載マンガで重要なのは「オチ」よりも「引き」とほうだったりします。「引き」というのは基本は左ページの最後のコマで、次のページへめくる期待感を増幅させるための演出、もしくは来月号が読みたくなるように思わせぶりな終わり方をすることです。
「引き」の弊害は「決着」や「腑に落ちる」ことよりも「未決着」や「もやもやする」ことのほうが興味深い作品と思われしまうことです。
「10年連載した作品がついに完結」っていわれても、伸ばしに伸ばした結果という気がします。ヒット作を10年連載するよりも10年で3作品をヒットさせるほうがスゴいマンガ家だと思います。最終回で全ての謎(疑問やもやもや)が解決されれば「伏線回収」とかいって大喜びなんでしょうが、謎=ストーリーではないので、最終回が謎解き(種明かし)で終わっちゃうと作品を読んだ喪失感は解消されません。一般名詞でいうところの「ネタバレ」という言葉の使い方がおかしい批評家の方々がいます。(町山氏とか、おすぎさんとか・・・)
読み切り連載(作品は毎号続くがストーリーは1話完結)の場合は「引き」でごまかすことはできません。今月号よりも来月号のほうが更に面白いっていうやり方は通用しません。今月も来月も同じく面白い必要があるからです。読み切りは1話だけで面白さが完結する必要があるので「オチ」がとても重視されます。日本で一番「オチ」にこだわった作品は秋本治先生の「こち亀」でしょう。
昔の少年マンガは大ざっぱにいえばストーリーマンガとギャグマンガに分類されていました。面白いだけの短編がギャグマンガで、ストーリー重視の長編がストーリーマンガっていう感じです。この分類は「1・2の三四郎」のようなギャグ満載ながらストーリー性のある長編マンガをギャグマンガと言えるのか?という問題に発展します。
少女マンガのほうは何故かギャグマンガという文化があまり広がらず、シリアスマンガとコメディマンガに分類されていきました。少女マンガの中でもギャグマンガの名作や大御所作家はいますが、ジャンルとしてあまり評価されていないイメージがあります・・・

 麻生みことさんは「マンガはオチや笑えることが大切」という部分にこだわっていると思います。マンガ家としてのサービス精神が旺盛で「作品のテーマ」とか「作者が表現したいネッセージ」とかの“作品論的なおべんちゃら”よりも「面白くてナンボ」っていう潔さすら感じます。このタイプのマンガ家さんでメジャーなのは「それでも町は廻っている」の石黒正数さんですね。
石黒さんのマンガの問題点というのは読後の感動がまったくないっていうことです。石黒さんのファンはマンガで感動しようって思って読んでいるわけではないから、問題点ってのもヒドい言い草なんですけどね。
マンガのストーリーで感動や共感、いい話やなぁ・・・って思える作品は、概して意外な結末よりも読者の予想通りの結末だったりします。ただし、ミステリーはドンデン返しとか予想外のエンディングを楽しむジャンルっぽく思われています。それでも多くの人は自分の思い描いたラストシーンに落ち着くほうが読みやすかったりします。「男はつらいよ」はもっとも多くの日本人が観た作品ですが、寅さんに「予想外のクライマックス」っていうのはありえません。
作者の優先順位が「感動させる」なのか「ビックリさせる」なのかでいえば、麻生みことさんや石黒正数さんは「読者をアッと言わせる」ことのほうを優先させるタイプのマンガ家って印象です。
「予定調和でない」とか「ラストが予想できない」というのはシナリオにとって最大の褒め言葉という感じもしますが、必ずしも結末が予想外なことが重要だとはいえません。逆に読者が8割の部分までの世界観を楽しんでいたのに、ラスト2割の部分が想像と全然違う展開になっちゃったらガッカリっていうこともあります。
例えるのなら読者が読んでいたハシゴがクライマックスで外される感じです。「イヤなキャラだと思っていたら最後で本当はいい人(正しい人)だった」という裏切りはアリっです。しかし「ラストであのいい人キャラが黒幕(ラスボス)だったのかぁ・・・」っていうのは感動しにくいです。「実は悪いキャラ」よりも「実はいいキャラ」のほうが高度なシナリオなんですよね・・・
麻生みことさんや石黒正数さんの作品にはハシゴを外して読者を見下す印象がちょっとだけありました。読者をもっとも見下していたマンガ家の1位は故 吉野朔実さんです。そのほかにも西炯子さんや二ノ宮知子さんなんかも見下し系のイメージでした。
ミステリーの場合はハシゴがたくさん掛けてあって「正解はこのハシゴでした」という構造になっています。この場合はハシゴを外すのを楽しむジャンルなので感動とか共感とは無縁な感じの作品になります。

 今では麻生みことさんに限らず西炯子さんや二ノ宮知子さん、志村貴子さんたちも、メジャーマンガ家になって“一般の読者の気持ちを踏まえた作品”をリリースするようになりました。初期からのファンには「尖っていた頃の作風が好き」っていう意見もあるんでしょうが、メジャーに迎合するというんじゃなくて能力の高い方々が「より面白い作品を描く」ために選択した結果だと思われます。
もちろん選択しないでマイナーながらも尖った作風を貫いているマンガ家さんもOKですし、マンガファンにとってはそーいうマンガ家さんは大好物です。自分の好みは本気か?軽口か?の二択だったら本気で描いているマンガのほうを押します。
麻生みことさんの「そこをなんとか」が連載されていた時期に、井浦秀夫さんの「弁護士のくず」というリーガルコメディマンガも連載されていました。内容はどちらも「問題?弁護士が弁護依頼を解決していく短編シリーズ」です。作風が違いすぎるので両方読んだ人は少ないかもしれませんが、井浦秀夫さんもハシゴ外しの名人です。しかし麻生みことさんが本気にさせて肩すかしさせるのに対して井浦秀夫さんは肩すかしのフリして本気にさせるという真逆な印象です。
ざっくりとした言い方だと麻生みことさんのストーリーは信用できないっていう感じなんですよね。マンガだから面白いか面白くないかでいえば面白いんですが、作者の本気で思っていない感が強く出ちゃっています。結局は本気度が作品の評価基準の上位にあるんですよね。
「ハシゴを外す=ドンデン返し」と考えると、必ずハシゴ外しをしてくるマンガ家さんに萩岩睦美さんや吉村明美さんなどかいます。この方々の作風は「幸と不幸は紙一重」なのがテーマなので、ハシゴの掛け違いはストーリーの重要な要素です。もちろん通常のマンガ家さんのストーリーよりも本気度は高い印象になります。「ドンデン返し」を寓話的に捉えるか、だまし絵的に捉えるかっていうことですね。

 
「大正ロマンポルノ」の裏表紙に書かれているあらすじによると・・・

『時は大正末期。盲目の絹子は小説家志望の青年と恋に落ちる。だが、なかなか芽が出ないこと焦燥感を募らせる青年に、絹子は心中を持ちかけるが・・・。予測不能のノンストップ人間劇ここに開幕!』

作品は第1幕、第2幕、最終幕の3話で構成されていています。本編とは別に「徒花」という短編も収録された単行本全1巻です。
キーワードは“予測不能な人間劇”と“開幕!”という部分ですね。詳細はネタバレなので書きませんが、一番のキーワードは“ロマンポルノ”のポルノの部分です。
遊女と文学青年の恋愛もののディテールがしっかりしているのが予測不能なパートに生きてくるんですよね。思えばリーガルものも弁護士の先生の監修をつけたり、物作り工房マンガも職業や京都をキッチリ取材していました。そーいう知ったかぶらない姿勢が麻生みことさんの最大のセールスポイントなんでしょう。
「大正ロマンポルノ」も第1幕よりも第2幕、最終幕のほうがキッチリ構成されたシナリオです。麻生みことさんのオチをつけなければ気が済まない性格は、マンガ家にもっとも必要とされる気質なのでしょう。この気質は西炯子さんは筆頭にメジャーに売れてるマンガ家さんにはほとんど装備されているスペックです。そして麻生みことさんのキャラの個性の付け方と振り分けが絶妙に上手です。ステレオタイプに「こーいうヤツいるよね」っていう解りやすいキャライメージを登場人物の個性に割り振るんですよね。それはキャラ設定が配役的で脚本重視の創作だからっていう気がします。
それを突きつめると麻生みことさんはキャラクターが描きたいのではなくて、シナリオが書きたいというタイプのマンガ家なのかもしれません。キャラへの思い入れがあまりないから登場人物がガッカリしてしまう展開(ハシゴが外されるラスト)が気にならないんじゃないのかな・・・?

 唯一のネタバレなんですけど、この「大正ロマンポルノ」というタイトルでポルノチックなマンガを期待して買っちゃうのは罠です。内容にポルノ要素は5ページくらいしか出てきません。一番のハシゴ外しはこの作品がロマンポルノではないっていうことです。
麻生みことさんのファンだったら「あ~ エロマンガなんてムリムリ・・・」って察せられるのでしょうが、本屋で平積みの「ロマンポルノ」って書いてある表紙をレジへ持っていくのは少女、淑女の読者には無駄に抵抗感がありそうです。ガチでレディースコミックの読者がポルノマンガを求めていたら「何じゃこりゃぁ・・・」って言いそうですし・・・
別に麻生みことさんのかくエッチぃマンガが読みたいって思う人も少ないだろうし、今回の単行本はハシゴの外し方が絶妙です。そのハシゴ外しを楽しむマンガだと思うので、タイトルの「ロマンポルノ」に反応しちゃいけません。
そーいうこっそりロマンポルノがみたい少女、淑女やガチで熱いロマンポルノ?を求めているお姉さまには、もんでんあきこさんの作品をオススメします。オトナの恋愛(エロ)が描ける人は多いですが、ポルノにロマンが入れられるマンガ家は希少な存在です。麻生みことさんのポルノスキルは花田祐実さんと同じくらいの低レベルな争いです。


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疑似親子の同居譚 - 2020.09.02 Wed

深海 紺 さんの「春とみどり」全3巻です。

 まずは、マンガやアニメ、小説、映画などの創作の障害者表現と差別表現についてです。現代社会ではテレビやマスコミ、著名人のSNSなどで差別発言をしたら、即 炎上、謝罪、打ち切りという事態になっちゃいます。とくにジェンダーや女性差別、人種差別、貧困などが4大炎上案件っていう感じです。
そもそも、差別とはAとBの差を分けるという意味なので、多数が少数を卑下することではないです。有色人種が「この白人野郎」っていうのも差別的発言だし、ネットで流行りの「上級国民」というフレーズも差別的ですよね。
差別発言をする人には差別主義者で差別するのが大好きな人(わざと他者を蔑視する)と、物事を思慮することができない人(教養の無さによる)とがあります。差別主義者というのはも論外ですが、教養が無いというのも看過できるもんではありません。
「うっかり発言をするような人は公の場で発言する資格はありません・・・」っていうのは、うっかりさんへの差別になるというのが差別表現のムズカシイところです。
深海 紺さんが差別主義者ということではありませんし、「春とみどり」という作品が差別的な作品ということでもありません。むしろ、差別とは一番遠いタイプの『優しさあふれる、ふたりの日常』というマンガです。ふたりというのは31歳独身OLみどりと14歳で母親が死別した春子です。

 今回からの記事は「春とみどり」の全3巻をテキストに解説するので、読んだ人のほうが合点がいくと思います。3巻で2千円ちょっとなのでちょっと高めですが・・・
『優しさあふれる・・・』がキーワードの作品なんですが、優しさの表現がどーも飲み込めない作品っていう感じでした。「優しいマンガが描きたい」という目的は評価したいのですが、「意欲的に優しいマンガを描いているのか?」という疑問がありました。酷い主人公のゲスなストーリーは誰にでも簡単に描けるんでしょうが(偏見あり)優しいストーリーは案外ムズカシイです。
優しさ溢れるストーリーの描き方の説明なので、ヒーロー物やミステリー指向、ファンタジーな作品を描きたい人には関係ない内容です。そーいう作品は自由にのびのびと描けばいいのでしょう。ましてやマンガを描く人向けの内容なので、深海 紺さんのファンやマンガ読者の方々に向けた内容でもありません。
自分が読んできたマンガの中で「春とみどり」のような印象のマンガが意外と多いです。こーいう「いい人マンガ」を描くときに陥りやすい部分を考えて見ましょう。
 
 「春とみどり」の単行本の1巻目の裏表紙には次のように描いてあります。
『人つきあいが苦手でどこにいても居場所がないみどり(31)は、中学時代好きだった親友・つぐみと瓜二つな彼女の娘・春子(14)と出会う。 かつて自分に居場所をくれたつぐみ、今度は自分が春子のために居場所を作ろうとみどりは春子を引き取ることを決意するが・・・ 』
ちょっと何言ってるのか解りにくいですが、要約すると『 みどり(主人公)の元につぐみ(中学の同級生)の訃報、みどりが葬式に参列したらつぐみの忘れ形見の春子と出会う。春子には父親がおらず親戚が施設に入れる相談をしているところ、“赤の他人”のみどりが春子を引き取ると宣言する・・・』っていうストーリーです。
ベースになっている「他人の子供と疑似親子」という設定は、ありがちな展開ながら人情モノの鉄板でもあります。子供の視点で「本当のお母さんじゃない」っていう少女マンガは多いです。「本当のお母さんは誰?」っていう感じです。小沢真理さんの「銀のスプーン」なんかは本当のお母さんや本当の弟やらでてきて大騒ぎな作品でした。
宇仁田ゆみさんの「うさぎドロップ」あたりから思わず引き取る系のパターンが確立した印象です。「春とみどり」と同型の作品で誰もが思ったのはヤマシタトモコさんの「違国日記」でしょう。ストーリー冒頭の葬式の展開が「違国日記」の丸パクリです。深海 紺さんにも言い分とかあるのかもしれませんが、同じ題材でここまで類似すれば読者にとっては「パクリ?」ってなります。今回はそこにはあんまり触れませんが、これだけ寄せていった以上は「違国日記」と比較されないというのは都合がよすぎますよね。
現在連載中の作品だと、くずしろさんの「兄の嫁と暮らしています」があります。こっちは唯一の肉親である兄が死んでしまった女子高生の志乃と兄嫁の希さんとの「他人だけど家族」というストーリーです。兄嫁と暮らすという設定は無理がないので、「違国日記」ほど似ている感が少ないですが、「春とみどり」と「兄の嫁と暮らしています」には共通点があります。「春とみどり」の裏表紙には『居場所がないみどりと居場所をなくした春子。そんなふたりが織り成すセンシティブ同居譚』と書いてあります。そして「兄の嫁と・・・」の裏表紙には『日常センシティブストーリー第1巻』と書いてあります。
「センシティブ」って何だよ?ってことですが鋭敏とか慎重に扱われるべきっていう意味ですね。センシティブ勝負をしかけるんだったら比較せざるを得ないです。ちなみに「兄の嫁と・・・」のほうが先に出版されています。
ちなみに「違国日記」はセンシティブというよりも豪腕なストーリーって印象ですが、裏表紙のコピーは『へんな人と暮らしはじめた』です。「違国日記」は主人公の圧倒的な自我と社会性のなさがテーマの作品なので、このコピーは本編の内容をよく言い得ていると思います。

 次回からは「春とみどり」の内容を具体的に分析していきたいと思います。これは「春とみどり」を評論するのではなくて、センシティブなストーリー?の描き方を考えるための記事になります。
深海 紺さんのファンや「春とみどり」が面白かったという方々は、それで十分なんだから次回の記事は読まなくても構いません・・・  今回の記事は言い訳の前倒しです。


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ベルリンの俳優賞 - 2020.08.29 Sat

ベルリン国際映画祭の最優秀主演俳優賞の設立について。


 ベルリン国際映画祭の事務局は8月26日 「最優秀男優賞」と「最優秀女優賞」を廃止し新に「最優秀主演俳優賞」と「最優秀助演俳優賞」を設けると発表しました。
カンヌ国際映画祭やヴェネツィア国際映画祭、アカデミー賞だって男優賞や女優賞があります。ベルリン国際映画祭では男優・女優という言葉が引っかかったようです。映画界では  Me Too 運動など性被害や人種やマイノリティーへの差別を改める動きが始まっている印象です。
ベルリン国際映画祭の事務局は「映画業界でジェンダーにより敏感なるきっかけになると信じている」と声明しています。
自分は声明の中にある「ジェンダーにより敏感になる・・・」という部分に違和感があるんですが、本来は世の中がジェンダーに鈍感になるべきなんだと思うんですよね。鈍感というのは無関心に似ているんですが、「女性が男性と同等の仕事をしていることに敏感になる」というのは「あっ女性なのにこんな仕事をしている」って気がつくことです。社会に求められてるのは「こんな仕事を」という感覚がなくんなって、当たり前のように男女が同等の仕事をしている世の中です。隣にLGBTの人が座っていても違和感がない人は差別を起こしません。それはLGBTに気がつかないくらい普通の景色になるっていうことです。
こーいうケースで差別がなくなったのは東京での「田舎者」への差別です。東京で田舎者に会っても「うわっ田舎者がいる」なんて思う人はいません。今では当たり前ですが、昔は田舎者という差別がありました。昔の都会の人は田舎者に敏感だったのです。都会に住む人の多くは自身が田舎の出身だから・・・
今回のベルリン俳優賞における男優や女優という区分けを廃止するというのは、トランスジェンダーの俳優が自己のセクシャルと違う性で受賞することに対する配慮です。町山智浩さんの情報だと、カリフォルニアの学校では男子トイレ・女子トイレというのが廃止されています。トランスジェンダーの人のために男用、女用という区別を無くした例ですね。そーいう方向の一環として男優や女優という区分けを廃止づるんでしょう。映画賞という派手なイベントは発信力があるので「・・・敏感になるきっかけ」の効果は期待できるかもしれません。

 そもそも俳優というのは男性のことで女優という言葉が性差別用語(スチュワーデスや看護婦)というのなら理解できます。映画の主役とは男優のことで、女優賞というのが男優に対する相手役のことを意味するのなら女優は性差別用語です。ムズカシイ言葉だとポリティカルコネクトネス(性差別などの偏見を含まないこと)として役者を俳優という言葉で統一しようということです。
しかしそれではベルリン映画祭の声明にある「ジェンダーにより敏感になる・・・」という意味よりも女性差別への配慮というニュアンスになっちゃいます。女性はジェンダーではないからですね。
男性俳優が男優賞を取り、女性俳優が女優賞を取るのいうのなら従来のカテゴリーで十分だったのでしょう。問題になるのはトランスジェンダーの俳優が生まれた時の性と違う性で俳優をしている場合です。
男性から女性になって女性を演じるのは女優賞でいいのか? もしくは男性のまま女装して女性を演じきるのは女優賞なのか? その逆で女性が男性になって・・・ さらに、男性が女性になったけど男性を演じた場合は・・・? 何よりもトランスジェンダーが主人公の映画だった場合はこの現象が必ず起こるハズです。たしかにいろいろと不都合なことが起こりますね。
ジェンダーへの配慮とはマイノリティーの側が生きにくい社会を改善していくものです。しかし、映画賞というのが受賞する俳優のための賞なのか?それとも映画ファンのための賞なのか?ということも考慮する必要があります。
映画ファンの気持ちとしては作品と演技が受賞理由なので、それ以外のこと(国籍やルーツ、性別、性自認など)はどうでもいいのです。だから男優賞・女優賞の廃止なんだろうけど、男優か女優かを決めるのは役者のセクシャルではなくて役柄のセクシャルだと思います。

 映画などの創作というアートの世界では社会性や倫理が強くなると、面白さや多様性が制限されちゃうと思うんですよね。極端にいえば差別的なキャラには差別的な発言は不可欠だが、それを差別的表現だと言及される「そりゃ、そーなんだけど・・・」ってなっちゃいます。旧ナチス関連のマークなどは掲げただけで違法ですが、第二次大戦の映画では出てこないほうが意味不明になります。
女性差別やLGBT差別な映画は批難されますが、女性問題やLGBT問題と言い換えるとテーマ性が評価されたりします。
男優が男臭さを全面に出したり女優が美貌で魅了するといった俳優のフェロモンを評価するのはアリだと思います。そもそもベルリンやカンヌの選者の爺さんたちにフェロモンを評価しろっていうのはお門違いですけどね。アカデミー賞なんかは年間で一番フェロモンの多かった役者が授賞してもいいんじゃないかな?
昨今では腹筋が割れてる女優が評価される傾向っぽいのですが、自分の意思がある人=鍛えてる人というのも偏見に過ぎません。女性が女性的というワードで勝負するというコトを否定する社会では、人権やモラルは手に入れられてもアートを手放すような気がしています。
男優賞が肉料理の賞で女優賞がスィーツの賞だたとしたら、豆腐ハンバーグが最優秀肉料理賞になったり、糖質フリーが最優秀スィーツ賞ってどうなんでしょう? そのほうがカラダに良いのは解りますが、そこを競ってるの?っていう感じですよね。「最優優秀料理賞はシーザーサラダです」とか・・・
新しい主演賞と助演賞は男性も女性もジェンダーフリーの方も平等に授賞する可能性があります。しかし、実際に授賞する資格があるのは性別や人種ではなく、賞に値する作品(演技)かどうかです。
何となくですが性的な魅力はますます低評価になっていくように思えます。病的な演技や哲学的な演技には受賞理由を説明しやすいんですが、格好いいとか美しいという映画スターのスターな部分を評価するには男優賞や女優賞が必要だという気がします。
映画ファンの方々が心配されているのは授賞者が男優に片寄ったり、バランスを取るために女優を授賞させたりすることがフェアな選考の妨げになることです。ましてやジェンダーフリーの俳優が授賞することに通常以上の意味が発生しちゃいます。

 自分の考えでは年度ごとに作品や俳優に1位とか2位とか序列をつけるというのは、作品を創ることも演じる才能も無い人たちがプレーヤーにマウントが取りたいだけってイメージです。全員が「ライオン・キング」を演じて、最高のシンバを演じた役者に金獅子賞をあげればいいのにね。(ベルリンは熊でした・・・)
視聴者には観た映画が面白かったとかつまらなかったとかのジャッジをする権利があります。しかし違う作品を並べてどの主演が1番でどの主演が2番とか何様だよって思います。それも含めての映画業界なんだったら、知ったこっちゃないんですけどね・・・


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