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2017-05

構成を計算して詰める - 2017.04.29 Sat

吉野朔実さんの作品集「いつか緑の花束に」です。

 吉野朔実さんは2016年4月20日に病気のため亡くなりました。吉野さんの訃報記事は去年の5月4日の記事にて取り上げています。


 あれから1年が経ち一周忌も終えたころなのですが、去年の年末に遺作となる作品集「いつか緑の花束に」が出版されています。前回の日記の最後で「月刊フラワーズに掲載されたばっかりの同作品を読んでみたいですね」って書きました。この作品集には表題作を含む未発表作品と、2016年の3月に月刊フラワーズ誌上でインタビューされた内容が掲載されています。
インタビュー記事は2016年の3月のもので亡くなる一ヶ月前になります。これから描いてみたい作品があるか?を聞かれて『ストーリーは長短含めて心の中にいつもネタはあります。編集部のリクエストやページ数に合わせて選んで出してる感じです』って答えています。まさに志し半ばですが、常にストーリーのストックがあるというのが吉野さんらしいっていう感じですね。世間一般のマンガ家のイメージはアイデアが出なくて唸ってるイメージでしょう。
実際は何を描けばいいのか判らないマンガ家と、描きたい作品が多くて発表が追いつかないマンガ家に分かれるみたいです。お絵描きが上手でマンガ家になった人はストーリーのストックで苦しみますが、マンガ家は本来お話を作ることが好きだから始める商売です。マンガ家のエピソードで編集者と何を描くか悩んだり言いなりになったりするシーンがありますが、お話が思いつかないんだったらマンガを描くのを止めればいいのにって思っちゃいます。
前回の記事で十分?に追悼したので、今回は吉野さんのストックされてるストーリーのアイデアの傾向について考えてみましょう。

 吉野朔実さんのマンガの全盛期は80年代から90年代でしょう。一般のニュースでの訃報記事で代表作と書かれた「少年は荒野をめざす」や「ジュリエットの卵」は、1985年~1989年に今は無き少女マンガ誌の「ぶ~け」で連載されていました。当時の吉野さんは異端な少女マンガ家っていうイメージで、異端な少女マンガ誌の「ぶ~け」のエース格というポジションでした。異端なマンガを描きたい後輩マンガ家のいくえみ彩さんなどの目標になっていたとのことです。
最後の連載になった「Period」は吉野さん自身のキャリアハイなんでしょう。読んでいないから判らないのですが、父親の暴力と人間関係の変化といった重厚なストーリーらしいです。並みの作家さんなら邦画にありがちなリアル・バイオレンスや問題提起になりがちなんですが、吉野作品だったら『暴力の意味』とか『吉野朔実だったらどういう解釈のストーリーを創るだろう?』っていう期待がかかります。初期作品から他の少女マンガを圧倒する意味深いストーリーと心理描写が魅力のマンガ家だったからね。
2000年以降の吉野さんは少女マンガ家をきっぱり辞めて、活動を一般向けマンガ家として活動していきます。小学館の女性マンガ誌「月刊flowers」に河岸を変えたんですが、「ぶ~け」時代に残っていた“あくまでも読者は少女なんだ”という枷を取っ払っちゃいました。前回取り上げた「瞳子」から始まった非少女マンガ路線は、吉野作品中期の代表作「Eccentrics」のタイトル通りに主人公の奇人ぶりや奇妙さがウリのショートストーリーを発表していました。やがて吉野さんの活動のメインは本の雑誌社から出ている書評エッセイになります。文学と映画の造詣が深いことで有名ですが、後期の活動内容を見るとマンガ家というよりも文化人っていう扱いだったようです。マンガ家で文化人の方もいますが、文化人でマンガが描ける人はいませんね。そして文化人をやっている11年間に描いた最後の連載が「Period」でした。
「Period」は全5巻ですが1~4巻までと最終巻では作品のピッチが変わってしまった印象を指摘する読者が多いようです。曰く「無理矢理終わらせた感が否めない」って感じです。掲載誌の「IKKE」が休刊しちゃったのでやっつけで終わらせたのか、休刊のおかげで完結出来たのかは賛否が分かれるようです。描くほうもエネルギーが必要ですが、この作品を全5巻読み切るのも相当のエネルギーが必要みたいです。自分は吉野さんがテーマにしている暴力や支配の意味について、興味がまったくないから読むつもりもありませんけどね。

  ブログ画像 吉野朔実 いつか緑の花束を JPEG

 この作品集にはSF作品の「MOTHER」とその続編の未公開ネームと表題作の「いつか緑の花束に」ほかにショートが3編、ツートンコミック(2色刷り)が4編、そしてインタビューが収録されています。「MOTHER」と「いつか緑の花束に」は、初回から11年を経て完結し自身の最後の連載作品だった「Period」の後に描かれた作品です。インタビューで『心の中にいつもネタはあります』と答えている通りに、長短様々なテイストの作品を集めています。
「MOTHER」は『その国の歴史は大戦が終わった時から始まる。大陸は毒に侵され、人々は死に絶え、小さな島たちだけが生き残り、それぞれが国になったと伝えられる・・・』というナレーションから始まる“本格SF短編マンガ”です。なんだかナウシカや進撃の巨人のような「実はこの世界は文明は滅んでしまった地球」パターンです。このパターンの元祖は「猿の惑星」かな?吾妻ひでおさんの奇想天外時代の作品を思い返すと、SF作品を作るにはいかにたくさんのSFを読むかにかかってる感じでした。SF作品への知識量がSF作家のキモだと思います。SFを読まないシロウトがSFに手を出してもSFファンの方々にはエセSFなんか簡単に見破っちゃいます。この「MOTHER」には吉野さんの死後に見つかった続編のネームと別の作品で劇団モノのネームがあり、劇団モノの中に出てくる劇中劇のシナリオを作品化したのが「MOTHER」という作品です。
表題作の「いつか緑の花束に」はライトな幽霊奇譚モノです。往々にして殺人事件の物語では登場人物は人が殺されることに過剰な反応をしません。同じく幽霊が出てくる作品ではあんまり幽霊に驚くこともありません。同じく人類が滅亡した後の地球という事態にビックリするヒーローもいません。

 物語のパターンを大ざっぱに分けるとしたら「主人公の暮らしや人生を描く作品」と「起こりうる事件を描く作品」があります。これには作品のボリュームは関係無くて、16ページで一生を描く作品もあれば10年かけて一試合(事件)を描く作品もあります。主人公の暮らしを物語にするとしても成長や達成感がなきゃ読んでられませんよね。それにはエピソード(事件)がやっぱり必要です。日常をダラダラ描くマンガがブームになった次期もありましたが、フリートークにしたってある程度の話題がなきゃいけないんだから。
またストーリーの進行に関しては「エンディングへ向けて正解を導き出す作品」と「行き当たりばったりに流れて何処かのエンディングにたどり着く作品」に分かれます。物語を考える時にオープニングから考える方法とエンディング(オチ)から考える方法です。ダラダラと連載を続けたいのならば断然行き当たりばったりの作り方が向いています。こっちは常に新しい展開を用意できるから。オア値が決まってるのに引き延ばすと本当にダラダラしてるだけって感じだから。この両方で作られた作品は高橋留美子さんの「犬夜叉」です。
自分の考えですがマンガは「誰が・どうして・どうなった」を決めてから描き始めるほうがいいと思っています。よくマンガのアイデアっていうフレーズを聞きますがオープニングのアイデアっていうのはいわゆる“初期設定”というやつです。設定が面白いとか興味深いというのは作品を読む動機付けに必要ですが、本当に必要なのは「この物語はどうなるのか?」でしょう。

 収録されているインタビューの中で過去作についてのコメントが載っています。「記憶の技法」についてのコメントで『キャラクターが動いてストーリーができていった話というよりは、構成を計算で詰めていったタイプの話ですね・・・』と答えています。この作品に限らず吉野さんは少女マンガ時代からキャラの愛らしさでマンガを描こうなんて思っちゃいませんでした。同時代の松苗あけみさんや稚野鳥子さんの絵柄に比べても圧倒的に写実的で、男性マンガ家のようなキッチリしたコマ割も特徴でした。吉野さんは「Period」のような単一なテーマを長期連載するよりも、思いつくままに短編を量産するほうが作風に向いてるようです。エピソードによっては「何なのこのオチは?」とか「結局何が言いたいの?」っていう印象もありますが、あえて解決を描かないという技法も含めて吉野さんは構成を計算して詰めているんでしょう。そこが「意味ありげな展開だけで結末を投げ出す作家」との大きな違いですね。
数学が苦手な人は数式や類似問題を覚えずに、解き方を自分出考えちゃうタイプですね。初めて見た問題をその場で解読できるのならその人は数学の天才でしょう。一般に数学が出来る人はその問題を知ってる人のことです。謎(答え)が解けるということはトリック(数式)を知ってるから。
ストーリーの作り方にもルールやパターンがあり、法則に従えば誰でも自動的に作品は作れます。それはパクリではなくて、ストーリーの定石のようなものを見つける作業です。多くの人がストーリーが出てこないって言いますが、それは数式が思いつかないっていう悩みに近いモノかもしれません。数式を見つけるなんてピタゴラスやアルキメデスじゃあるまいし。ストーリー作りにはそれ相応の数式を知っていれば作業が楽です。しかも吉野さんが『構成を計算して詰める・・・』って表現しているのが言い得てますね。

 前回の日記で吉野さんのマンガのファン層は読書家の人たちなんじゃないかな?って書きました。吉野さん自身が書評家なくらいなので無数の本を読んでいます。実は吉野さんのアドバンテージはこの圧倒的な読書量だと推理しています。前記のインタビューのコメントの『ストーリーは長短含めて心の中にいつもネタはあります・・・』は、膨大な読書量に裏付けされた「こーいう話はこーいう結論」という計算されたストーリー作りを意味してます。
様々な小説などを読むことによってストーリーの定石をストックしていたんでしょう。学校の先生も読書は身に付くって言ってたし、マンガのアイデアを考えるには雑食に読書するのがいいって感じがしますよね。膨大な読書量の蓄積がストーリーの構成を計算する原資になってるんでしょう。
自分は吉野さんの作品を集英社と小学館に分けていて、どちらかといえば集英社時代のファンです。小学館時代の「瞳子」を最後に自分の中の吉野作品への期待値が下がっていき、「Period」の冒頭でとうとう読まなくなっちゃいました。それまでは集英社の契約に縛られた創作だったんでしょうが、小学館へ移籍して自由にマンガが描けるようになったんでしょう。でも小学館時代の作品を読んでいると「ああ、このお話はこーいうテイストを狙ったんだ」っていう風にしか読めなくなっちゃったんです。それは簡単な原理です。ストーリーを考えてる吉野さんが「物語の構成を計算して詰める」ということは、読者のほうも読みながら構成を計算することが出来るってことです。それの何がいけないのか?っていうと「ストーリーの構成に関心はするけど、そのストーリーに感動はしない」っていう感じです。

 吉野さんが小説のネタをパクってるとかではありません。パクる以前に世界中の全てのストーリーテラーを吸収しちゃってるから、マンガを作業のようにこなせちゃうんでしょう。マンガの描き方を最適化するコトによって、集英社時代に入れなきゃいけなかった何かを省いちゃった感じです。このイメージは秋元 康さんの作る曲に感動出来ないっていうのに似ています。春にはグッとくる卒業ソングを当ててきたりと、ニーズに合わせて最適化したビジネスソングを作る天才ですね。ファンの心をキャッチするのは上手ですが、ファンじゃない人たちにとってはぼんやりした曲にしか聞こえないんですよね。秋元さんは美空ひばりさんの代表曲とかも作ってるんですが、ビジネスソングに最適化した結果が昨今の売り上げなんでしょう。
この読書家特有の作風は吉野さん以外にも読書量を自慢するさっかに共通する傾向がありますね。ギャグマンガ家としては5本の指に入るだろう石黒正数さんの「それ町」も、こーいう傾向が強くて得意ではありませんでした。紺先輩だけを目当てに買っていたんですけどね。後半になるとかなり違和感がなくなっていましたが、どこが分岐点だったかは単行本がもう無いので調べられません。
そもそもマンガ家は知識がモノを言う商売なんだから、たいていは読書家なんだと思います。でも読書量をひけらかすタイプのマンガ家には「読書=賢い」という公式が見え隠れしちゃってます。映画に詳しいマンガ家にも言いたいことがあるんですが、またの機会にですね。

 吉野朔実さんの葵の御紋は、心理学とドッペルゲンガーです。作中では恋愛至上主義者よりも心理学者のほうが偉いっていう世界観です。恋愛には正解がないというのは当たり前の真理ですから、キャラがどんな恋愛論をセリフで唱えても、納得出来るか出来ないかは読者にゆだねられます。でも心理学って全てが本の受け売りなんですよね。たとえ作者が大学で心理学を専攻したとしても、その知識は大学で読んだ本に書いてあったことなんですよね。そのセリフが主人公の思考なのか?それとも作者が読んだ本の思考なのか?
自分が巧妙なシナリオよりもありきたりな恋愛ドラマに感情移入しやすいのは、そんな原因なのかもしれませんね。


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