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2015-06

日常の日々に - 2015.06.06 Sat

小沢真理さんの「銀のスプーン」です。 (今回はいろいろとネタバレです)

 アニメやマンガのジャンルに“日常系”というモノがあります。 ゆるいキャラがドラマ性の低い日常の展開を繰りかえし続けている作品の総称です。 ウィキペディアでは『空気系と日常系を別の作品傾向として使い分ける場合もあるが、特に区別せず以下では空気系に統一する』と書いてますが、日常系はニュアンスがつかめるけど空気系だとピンとこない印象ですね。
そもそも日常のストーリーでない場合は非日常のストーリーです。 非日常だと転校生が宇宙人だったり、地球を破滅させる組織と闘ったり、甲子園で全国制覇したりしなきゃいけません。 そーいう破天荒もマンガならではのテーマなんですが、主人公の平穏な暮らしにそくした日々をテーマにするのもマンガの得意とするジャンルです。 劇場へ行ったりDVDを買ったりして「わざわざ観た作品」が日常をダラダラ垂れ流してるだけだったら、誰でも「ふざけんな」って思っちゃいますよね。 わざわざ観たという労力に見合った見返り(面白さ)を求めちゃうから。 しかしマンガは「わざわざ読んでるワケじゃない」という読者の余裕があるので、たくさんの日常系がダラダラと連載され続けています。
マンガは「つまらないと思った作品を読むのは読者の自己責任」という不文律があり、納得して作品を選んでいるからつまらなければ「もう読まない」という選択をすればいいだけです。 ラーメン屋さんと同じです。 面白くないのは作者側の問題だけど買って読むのは読者側の選択の自由です。 アニメはリリースされる作品の総数がマンガに比べて圧倒的に少ないです。 ヒットした日常系マンガをアニメ化すると怒られるという現象は、日常系アニメの低コストで作ってるのがやっつけ仕事って感で不満なんでしょうね。

 日常を描くことと日常系を描くことは同じではありませんし、日常を描くストーリーが必ずしもダラダラしてるとは限りません。 事件は劇的に描写することで読者を引き込みますが、人生の機微は日々を丹念に描写することで読者に伝わるモンです。 しかし登場人物の気持ちが変化するにはそれ相応のボリュームを描写することが必要です。 例えば恋愛モノで主人公が1ページで他の子に心変わりしちゃうと、ただの“ビッチキャラ”ってなっちゃいます。 なぜ心変わりをしてしまったのかを丹念に描くには、それなりのボリュームを描かないと説得力が出ません。 短編作品の難しさもページ(時間)をかけずに説得力を持たせなきゃいけないというところです。 スポ根モノだって特訓の描写があってこその決勝戦です。 試合をメインに描きたいから練習を疎かにすると、クライマックスでの勝利の価値が薄まっちゃいます。 これも32ページの読み切りマンガにスポ根モノが向かない理由です。 投稿マンガを描いてる方は気をつけましょうね。

 日常をストーリーにするというのは大学生の男の子が主人公の場合、「彼がこれから何をするのか?」という期待感だけが読者をつなぎ止める術です。 映画の場合は騙してでも映画館に入れちゃえば最後まで観てもらえます。 自分はあまりにくだらなくて途中で帰ったことあるけど。 マンガの場合は読むのを止めるという選択が簡単にできちゃうので作家も大変だと思います。
何をするマンガなのか?というのは恋愛でも友情でも家族でも修業でも仕事でも、それこそ何でもありです。 彼(主人公)の人生に起こりうるだろう全てのエピソードがテーマ(ネタ)になります。 コレじゃどこに向かうマンガなのか読んでみなきゃ解んないですよね。 マンガ家のほうも描いてるうちに描きたいテーマがころころ変わることが多いから、読んでいたら後半はつまんなくなったっていう感想もよく耳にしますね。 恋愛マンガと日常マンガの違いは恋愛マンガは明確に恋愛マンガということです。 これは恋愛好きの読者も安心して読めるし恋愛モノが苦手な人は避けて通れるので安心です。 では、テーマがが漠然としているようなマンガの場合は何を目安にマンガを選べばいいのでしょう? 結局はそのマンガ家を信用できるかどーか?が読むか読まないかの基準になると思います。

 「銀のスプーン」の作者の小沢真理さんは「世界でいちばん優しい音楽」や「ニコニコ日記」などの作品を講談社と集英社の女性向けマンガ誌で執筆している少女マンガ家さんです。 小沢さんの描く作品の傾向はスタンダードな少女マンガの形式ながら大人の女性向けの“読みごたえのあるマンガ”っていう感じです。 キャリアはベテランですが古くささは感じません。
マンガの「銀のスプーン」は6月から「明日もきっとおいしいご飯」というタイトルの昼メロドラマ化が決定しているそうです。 小沢さんのマンガってどちらかというと地味な作品ばっかりのような気がしていましたが、実はドラマ化率がとても高いマンガ家さんです。 ドラマは昼帯という枠の関係なのか、結構ドロドロ系人間模様って方向らしいです。 俳優のキャストの中に主人公の律クンの相手役のヒロイン、倉科夕子の配役が発表されていないので、原作とはかなり違ったテイストになるようです。 原作の1巻目から一貫して律と夕子の中学生LOVE(当人たちは大学生だけど)がストーリーの軸の一つでした。 この少女マンガの主軸ともいえる恋愛マンガ要素をドラマスタッフはばっさり切り捨てたようです。 作品唯一の乙女キャラを切ったのは、番組の対象年齢がドロドロに飢えている主婦層だからでしょう。 原作での倉科祐子というキャラ設定が『クラス出目立たないおとなしめの文学少女が実はBL同人誌を描いていて、ポロマンガ家を目指しているガチ・オタク』という、昼ドラを観るような一般主婦層に共感してもらえなそうなヤバいキャラなのが原因だったのかもしれませんけどね。 サイキック斉木はキャスティングされていますが、マンガのイメージの昭和オトコとドラマスタッフの考える昭和オトコにかなりのへだたりがあるようです。 律のお母さん役は富田靖子さんなんですが、マンガのイメージだと別役で出演している藤田弓子さんのほうがイメージですね。 でも映画「さびしんぼう」の時に藤田さんがお母さん役で富田さんがヒロイン役で出ていたから、月日は百代の過客にして行きかふ年もまた旅人ですね?

 マンガ版の「銀のスプーン」の物語は母子家庭の母親が入院したり、長男(主人公)の出生の秘密だったり、弟の初恋だったり、妹のイジメ問題だったり・・・読者の対象が大人の女性なので、いわゆるファミリーマンガというジャンルです。 小沢真理さんのマンガの特徴の一つのメルヘン要素は無く、代わりに中学生(弟、妹)のすっぱい青春(大学生のすっぱい青春も)が乙女少女マンガ家の面目躍如です。 小沢真理さんはデビューからずーと大人の女性向けにマンガを描いていますが、ベースになっているのは乙女マンガです。 以前にこの日記で取り上げた「少女趣味の王道」という記事も小沢真理さんの作品を題材にしています。
今回の「銀のスプーン」という作品のウリは入院しちゃったお母さんの代わりに律(主人公)が弟妹や同級生なちに料理を作ってあげるシーンです。 ようするに律のいうキャラは速水もこみちさんのような完璧男子で、マンガ全体が「MOCO'Sキッチン」のファン層を狙った印象です。 巻末にレシピも載っていますし・・・
講談社は“もこみち色”を前面に宣伝してますが、このマンガのストーリー全体が“お料理マンガ”っていうワケではありません。 絵柄の乙女チックな感じや背表紙に書かれている「今回レシピ」に騙されちゃいますが、小沢真理さんが本当に得意なテーマはシングルマザーものです。 ちまちまさいた少女マンガっぽい作画で結構ダークな展開になることもしばしばです。 このマンガのメインのテーマは育児放棄(ネグレスト)なんだから。

  

 ドラマでも産みの母親問題がメインになるようですが、マンガ版では6巻まで出てきません。 それまでは律(主人公)の出生の秘密を家族が腫れ物のように扱う展開が続き、意を決して律の本当の母親に会いに行きます。 そこで律は父親違いの弟のルカと出会うという流れです。 ルカは母親から育児放棄による虐待を受けていました。 血がつながらない親子でも家族愛、MOCO'Sキッチンばりのお料理、クセはあるが気のいい友達等、ヒューマン・コメディ路線で6巻まで来たのに、いきなり食事を与えられない幼児(5歳)の登場です。 こーいうエグさがあるのも小沢真理さんが油断ならないマンガ家たる由縁です。
最近に始まったことではありませんが、児童虐待や育児放棄、はてはヒステリックな理由で実子を殺害するといった痛ましい事件の報道が後を絶ちません。 ニュースは殺害やそれに準じた凶悪なケースのみを報道してるのだから、育児放棄の実数は伺い知れません。 これらのケースに対してマスコミや評論家やネットの勇者たちは、親の資質や人格について糾弾し助けられなかった地域の行政や制度、法律に憤慨します。 子供が被害者の場合は善悪の図式がはっきりしているし、虐待する人間なんか愚図に決まってるから言いたい放題も許されるっていう論じ方です。 この作品のケースの母親がシングルマザーでよるの仕事をしている場合は“母親”という係数がアップされるので、より厳しい意見になりがちです。 お母さんにも事情があったのでは?って擁護しようものなら「育てられない事情なら子供を産むな」っていう正論で論破してきます。 事情を正論で返すのが許されるのは中学生までなんですが、正しいことが好きな論者たちには通用しないんですよね。

 「正しいコトは正しい」とか「悪は許さない」というのは世間サマではそうなんですがストーリーの世界では当てはまりません。 善良な主人公と悪役がいたとして、悪役が捕まったり倒されたりして正義が勝利というストーリーでは中学生が限度です。 ニュースで聞く事件はこの捕まったところだけを聞いてストーリーの全体像にかってに憤慨しているだけです。
ストーリーの中でも育児放棄の母親に律は憤慨し母親からルカを取り上げます。 ヒューマンな律の家族に迎えられルカは明るさを取り戻します。 やわいストーリーの勧善懲悪モノだと母親が逮捕なり糾弾されるなりするか、心を入れ替えてルカに泣きながら謝る展開が待っているモンです。 しかし本格ヒューマンストーリーでは育児放棄の母親はなかなか改心してくれません。それどころか新しい恋人のトコに転がり込んでしまうほどです。 読者としても「この女はもうダメだよ」っていう感じなので、彼女に対する印象はニュースで聞く育児放棄のバカ親への怒りの感情しかありません。 さすがに育児放棄は読んでいてもつらいし、不幸な子供を見ているのも良い気持ちではありません。 ヒューマンコメディのつもりで読んでいたマンガがリアル社会問題ものになっちゃった感じです。 それでも読者がこの母親と向き合って(マンガを読み続けて)いけるのはなぜでしょう? それは小沢真理とぴうマンガ家を信用しているからです。 この作家ならどんなきつい展開でも投げ出さずに着地してくれると信じてるからです。 「母親失格」と言い放ってキャラを全否定することも無く、都合良く改心させるでもなく、正々堂々と落とし前を津行けてくれる作家だと信じてるからこそ『どこに向かってるのか解んないような日常マンガ』を読者は11巻も読み続けられるんですよね。 そして「えー、そんな風になっちゃうの?」っていう終わり方でがっかりすることもしばしば・・・作家のファンになるということは、そのがっかりも込みで応援するっていうことなんでしょう。

 小沢真理さんはこの母親がとくにネグレストを言い訳するでもなく、ルカと別居したり再び引き取ったりしながら単行本5巻分をかけることによって母親にも感情移入できるように仕向けていきます。 11巻の最後で「育児放棄の母親にだっていろいろあるんだし」って思わせるほどにキャラの印象をアップさせています。 同じ内容を50ページ短編読み切りでも描くことは出来ると思います。 しかしそれじゃ母親の心の変化や読者の心の変化には足りないです。 「育児放棄は許すな!そーだそーだ!」って感じが精一杯でしょう。 長編でやるメリットは日々の生活の中で変わりゆくキャラを丁寧に描けるというところです。 この5巻分の長さが“読者が母親を許す”のに必要な長さなんでしょう。

ドラマ版の主題歌を高橋優クンが担当しています。 最近、彼の新譜をチェックしていなかったのでCD屋さんに行ってみようかな。

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