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2018-10

団体の虹と個々の虹 - 2018.10.10 Wed

新潮45の休刊についての続きです。

 築地市場が豊洲へ移転が実行されたのに伴い、吉野家1号店も10月6日に惜しまれつつも閉店になりました。吉野家は日本橋の魚市場で創業、魚市場の築地移転に伴い築地に移転したそうです。1号店は最後まで「早い、やすい、うまい」を貫いた店舗でした。メニューは牛丼のみで、常連(築地労働者)向けの裏メニューや「いつもの」というオーダーもあったそうです。「いつもの」は早く出すための究極なオーダー方法です。そんな1号店のラストを惜しむために集まった常連客は、昔ながらの吉野家というシステムに・・・ いやいや、今回こそは新潮45のお話です。

 本題の新潮45の杉田水脈氏のLGBT論問題ですが、LGBTに対する意見を擁護するつもりも批判するつもりもありません。そーいうのはネットやワイドショーでいっぱいやっていますから、そっちを見てください。
まず、あんまり取り上げられていない新潮社、新潮45の編集部が廃刊になった10月号を出すにあたっての、言い分がコチラです。

 【特別企画】そんなにおかしいか「杉田水脈」論文

『 8月号の特集「日本を不幸にする『朝日新聞』」の中の一本、杉田水脈氏の「『LGBT』支援の度が過ぎる」が、見当外れの大バッシングに見舞われた。主要メディアは戦時下さながらに杉田攻撃一色に染まり、そこには冷静さのカケラもなかった。
あの記事をどう読むべきなのか。LGBT当事者の声も含め、真っ当な議論のきっかけとなる論考をお届けする』

これは10月号が廃刊決定前に新潮社の公式サイトに載っていたアオリの文章です。新潮社は「十分な原稿チェックがおろそかになっていた」と認め「その結果、常軌を逸した偏見と認識不足に満ちた表現」という謝罪的なコメントとともに新潮45を廃刊にしました。10月号が出るまでは明白に「真っ当な議論のきっかけをお届けする」と書いています。しかし謝罪の中では、あたか「真っ当な議論をさせたかったのに、集まった原稿が常軌を逸していたことが見抜けなかった事を反省してます」という表現ですね。「議論のきっかけ=炎上商法」で何度も特集を組みたかったのがミエミエです。
自分は新潮45の10月号も杉田水脈氏の論文や応援寄稿のトンデモ記事も一切読んでいません。読んでなくてブログに書くのもどうなの?って感じですけどね。正直、今回の新潮45廃刊騒動の中で唯一読んだ新潮45の文章が上記のアオリ文です。
この文章の中で目を引くのは「見当外れの大バッシング」とか「戦時下さながらに・・・」といった強い言葉の部分です。公的な立場を取る出版社が他社メディアをここまで言い捨てるのなら、それ相応の見識や覚悟が必要です。もし、新潮社が「個人の言論の自由は保障された権利」と言うのなら、新潮社は公的な意味合いを何も持たない私的な出版社レベルということを認めることになります。
新潮社の社則や思想の信念が「LGBTに対して生産性がない」というスタンスだとします。今回の10月号の記事も「読者はちゃんと読み解いて、LGBTに対して冷静な判断と議論をしましょう」と宣言して11月号を出せば、それは出版社としてひとつの見識だと思います。記事のチェックができなかったという言い訳よりもマシです。
言論という言葉には弾圧という言葉がついてきます。弾圧というのは支配階級が強権で反対勢力に圧力をかけることです。どんな意見でも個人の意見は守られるべきで、どんな片寄った考え方を持っていても思想の自由です。しかし、公的な存在の出版社が「何を書こうと言論の自由だ」って言っちゃったらダメでしょう。芸能人の不倫を春本の如き掲載することは、国民の知る権利の行使とはいえませんよね。

 アオリ文章の中の「戦時下さながらに」という表現は言葉狩り的なことを指してるんでしょう。戦時下で最も国民が被害を被ったのは言論弾圧ではなくてデタラメな大本営発表です。国民が聞いたのは軍部の発表ではなくて新聞やメディアの報道です。出版社が軍部に騙されていたのかどうかは、歴史感の立場の違いはあるでしょう。でも、日本が大勝してるって書けば新聞が売れるのは間違いないです。当時、一番活躍した新聞社は旭日旗がマークのアレです。( 築地市場と話がつながった!)
共産圏だったら国家が無理矢理に記事を書かせるんでしょうけど資本主義の国民統制が社会主義のそれと違うところです。
新潮社の主張の言い訳会見も要約すれば「部数が減少していた新潮45の編集長が、売り上げに目がくらんでトンデモ記事を載せちゃった」ということでした。掲載した記事をトンデモ記事と認めちゃった以上、新潮社は戦時下さながらに国民を扇動しようとしてたことを認めたようです。

 前回の記事でも書きましたが廃刊騒動に寄せた文化人のコメントで多いのは「昔の新潮45はこんな雑誌じゃなかった」です。クドいですが昔から読んでる読者は20,000人もいません。今年は16,000部しか刷っていないようです。愛読者にコメントを求めるにしてもドコを捜せばいいのか?
新潮45はそもそも新潮文芸部からスタートした雑誌です。だから新潮45の新潮は週刊新潮の新潮ではなく、小説新潮のほうの新潮です。当初は45歳の生きがいと健康がテーマののんびりした雑誌だったので、すぐに廃刊の危機になりました。文芸チームで始まった雑誌ですが、売り上げ低迷で週刊新潮チームに編集が乗っ取った形です。当初から文化人のコラムが充実していたのは文芸誌系の人脈のおかげだったのかもしれませんね。
廃刊が決定した週にラジオでレギュラー出演していた新潮社の出版部部長の中瀬ゆかりさんがコメントしていました。ラジオの要約なので記憶の抜粋ですが・・・

 編集長時代にLGBTの寄稿を寄せてもらっていた
 何を言ってもいいのかというコトではない
 編集の過程で十分なチェックができていなかった この言い分はおかしい
 これをきっかけに差別について考えようよとなればイイ

中瀬ゆかりさんは元新潮45の編集長で完全に身内の不祥事に対する出版側のコメントですが、端々に忸怩たる思いがにじんでました。忸怩はジクジと読み、恥じ入るという意味です。
中瀬ゆかりさんにしても「昔はこんな雑誌じゃなかった」的な要素がコメントに含まれてました。中瀬ゆかりさんが編集長に登用さてたのは、硬派なおっさん雑誌だった新潮45の部数低迷が止まらず新しい基軸を求めたからです。その新しい基軸はおっさん以外の読者取り込む事でした。雑誌のタイトルが45歳のおっさん雑誌なのに、女性にも読んでもらうことで部数倍増計画です。これはそもそも「婦人画報」をおっさんにも読ませることに近いムチャ振りです。
中瀬ゆかりさんが始めたのはゴシップ事件やエロ記事で、コレがなぜだか30から40代の女性読者を取り込む事に成功したらしいです。ラジオ出演でゴシップ記事や下ネタを嬉々と語る中瀬ゆかりさんはノリノリで編集してたことでしょう。中瀬ゆかりさんにとっての「昔はこんな雑誌じゃなかった」はゴシップとエロの新潮45です。ナゾ理由で女性読者の需要をつかんだのですが部数はさらに減少しました。読者総数が減少してるのに読者の男女比が半々近くまでいったということは、本来の読者である45歳オーバーのおっさんの半分以上が愛想を尽かせたことになります。



 10月8日、新宿にて約500人のLGBTの方々が新潮45の記事に対してデモを行いました。7月にも杉田水脈議員への5,000人規模の抗議デモを、自民党本部前で行っています。このときはアジやプラカードでデモっぽかったんです。しかし、今回の新宿のデモはお馴染み?レインボープライドのパレードのようでした。デモの主催者側が「目くじら立てて抗議するよりも、この騒動をでLGBTを世間に認知してもらう」というソフト路線が狙いだった感じです。
世間が「差別、ヘイト、自民党・・・」って騒いじゃってるから、あえてクールなスタンスを狙ったように思われます。しかし、レインボーの旗を振りながら踊り歩くフレンドリー路線のパレードは、一般の人たちには奇怪に見えたり「ふざけてるの?」って思われたりしたようです。
レインボープライドとは性と生の多様性をアピールことが目的ですが、そのアピールは「ボクたち陽気なパリピだよ」っていうアピールが多分に含まれている感じです。LGBTのイベント等に参加してる方々はLGBT当事者や支援者も含めて「世間へ自分たちの世界がノンケの人たちと変わらないんだよ」と強くアピールしています。そこに「LGBTは陰気な人たちじゃなく、みんなと同じ明るい人たちだよ」っていうふるまいがいきすぎてパリピな集団と化してしまうようですね。
彼らがいうノンケ=普通の人だとしたら、普通の人には彼らの集まったときの圧の強さはちょっと引いちゃいます。今回のパレードでも近づいていって「頑張ってね」と声をかけるよりも、遠巻きに見ながら薄ら笑いで通り過ぎるのが“普通の人たち”の反応でしょう。
自民党本部へ押しかけたデモは政権与党への抗議デモなので目的と手段が一致していたと思います。しかし、今回の新潮45の記事に抗議するデモというのは、チャンスとばかりに何かに便乗したデモだったという印象でした。「真っ当な議論のきっかけ」とか言ってる出版社も論外ですが、言い出しっぺの議員もまともな議論の能力が無いのは最初からあきらかです。相手の言い分が「お前の母ちゃんデベソ・・・」レベルなのに、反論もデモも意味が薄いです。逆にLGBTが世間に無理解なまま、お騒がせな話題提供の片棒を担がされちゃってる感じです。自分は今回の杉田水脈問題はある程度の意思表示をしたら、スルーでよかったくらいの内容だったと思っていました。

 自分は「生産性がない」というセリフよりも「LGBTに税金を使うな」というほうが、はぁ?って感じでした。自分が知る限りLGBTのために税金が使われている事例がまったく浮かびません。LGBTのために新たな道路や建物を作る必要もありません。例えば同性婚を認めるという問題は役所が婚姻届けを受け取るだけで解決します。突きつめればLGBTの方々は「LGBT を理由に生活や精度の制限をしないでくれ」とお願いしてるだけです。
侮辱されたことに対する怒りは理解できますが、ただ言い返すという段階はLGBTではとっくに終わってると思っています。「この騒動を機にLGBTを考える議論のきっかけに・・・」なんてことが起きないことは、LGBTの当事者の方々は重々承知です。政治家きっかけの問題提起だったんですが、政治家は与党批判のネタくらいにしか思っていません。
そもそも、LGBTといっても活動をしている有名マイノリティーの人と、家族や親友にもカミングアウトできないサイレント・マイノリティーの人がいます。最近の統計では教室に2~3人はLGBTであるとのことです。単純にデモやレインボープライドに参加している5,000人を活動してる人だとしても、表舞台に出てこないLGBTの人の方が圧倒的に多いんです。

 新潮45の記事は差別的発言というレッテルでバッシングされました。それを耳にした世間が差別主義の雑誌を糾弾するカタチでした。基本はネットとマスコミが頑張ったバッシングです。
以前からLGBTの人たちが戦っていたのは 差別と無理解です。しかし、昨今では面と向かっての差別というのはかな減ってるんじゃないかと思っています。逆に無理解のほうはまだまだ道半ばって感じでしょう。活動家のLGBTの差別されてる意識が高いのは、活動という矢面に立っているからこその実感でしょう。
日本は宗教的なタブーがないので欧米とは求められている活動内容が違うと思います。宗教的な禁忌は、それこそ議論にすらならないので大変です。何でLGBTの問題が広く語られたり理解が深まらないのでしょうか? 日本でLGBTが語られない理由は、LGBTがセックスを含む言葉だからです。よく聞く学校や職場でカミングアウトして人間関係が壊れた・・・的なアルアル話ですが、自分が誰とセックスしたいのかなんて本来はノンケの人だって言いません。
言わなきゃいけない人に向けては言える社会、言わなくていい人に対しては言わなくていい社会が理想だと思います。役所や公共サービスには言える社会、言いたくなければたとえ親にでも隠せる社会です。
活動家の方々は最終的にLGBTもノンケも関係なく笑い合える世の中を目標にしています。でも、それは相当なコミュ力とパリピな資質が必要です。大半のLGBTはきっと世の中を変えたいんじゃなく、生活を変えたいんだと思います。パリピ会場の人たちは誇らしげに自分の指向やパートナーをオープンにしますが、求められているのは個人をオープンにしなくても生活できる世の中ですね。


「ほぉ」って思ったら押してね

勝手に休刊すれば? - 2018.10.03 Wed

新潮45の休刊についてです。

 新潮社の雑誌「新潮45」が休刊(廃刊)になりました。そもそも購読してたわけでもないので、何の感慨もありません。しかし廃刊理由がLGBTに対する激しい差別記事ということで、過去にLGBTという言葉を扱ってきたこの日記でもふれておくのが筋だと思います。
事の顛末は『杉田水脈議員のLGBTへの持論と、それを擁護する寄稿に対する読者ではない人たちからの批判や抗議に答えるカタチで掲載誌を廃刊にした』っていう感じす。だいたいマスコミが騒いでるようなことで間違いないんです。唯一違うのは新潮45の読者からの批判というよりも、載せたこと自体が許されないと騒いでいることでしょう。
この騒動で多くの人たちの考えが「新潮45は許せない」という意見にまとまったので安心しました。新潮45の記事を読んで「オレもLGBTは生産性がないって思う」と同調する擁護派が出てきたら、かなり気味が悪い世の中です。でも読んでもいない雑誌に載っている文章が「社会正義に反するから」って糾弾されるのは、ちょっと気味が悪い世の中ですね。「新潮45ってこんな雑誌じゃなかったのに」という気分になって憤ってる人たちはネット記事や宮根さんのせいで、すっかり読者気分になってるだけなんでしょう。だって18,000部しか発行していない雑誌だから。日本国民1億2千万人の中で2万人しか読んでいない雑誌です。そんな誰も読んでいない新潮45という雑誌の「昔はこんな雑誌じゃなかったのに・・・」っていうお話です。

 吉野家が6年ぶりに赤字決算になる見通しとのことです。17億円の黒字を見込んでいたが最終利益が17億円の赤字と下方修正したとのことです。本業の吉野家の売り上げが伸びず、アメリカ産牛肉、人手不足による人件費の高騰、傘下のステーキ店の不振などが原因とのことです。
かつては吉野家ブームというモノがあり ♪牛丼一筋 80ね~ん・・・って歌われれいました。キン肉マンが食べていたころです。初めて吉野家を意識したのは担任の先生が授業中のフリートーク?で「オレ○○先生と吉野家行ったぜ」っていうダベ話でした。まだ子どもだけで外食なんか無理な時代でしたから、羨望のまなざしだったと記憶してます。吉野家の初体験は中学時代に同級生と初プロレス観戦の帰りに10人くらいで浅草の吉野家でした。中坊には全席カウンターなのもビビるし、あきらかに「ガキが入る店じゃねぇ」よって感じがプレッシャーでした。当然ながら店内では誰もしゃべりません。自分たちが招かれない客だと重々承知しているからです。当時の吉野家は親子で和気藹々と入る部類の店ではありませんでした。

 自分がもっとも吉野家を利用していたのは就職して2~3年のころ。外回りの営業での遅い昼飯や遅い晩飯でした。すでにビビりな中坊ではなく、堂々と吉野家の住人です。
当時の上司の教えで「温かいメシを食べなきゃイカンぞ」って言われてました。そう、吉野家は一番安い温かいメシだったんです。レースのピットクルーのように早く出して、早く喰わせ、早く店を出るシステムは、当時のサラリーマンや現場作業者のニーズにピッタリの形態でした。当然ですが家族団らんやデートの食事には不向きです。何しろメニューがデカさの違いしか無いんだから、女の子向きではありません。これを逆に利用することで会社の女の子を吉野家に連れて行くと「名前は知ってるけど入るのは無理だったの」っていう子にはウケるんですよね。チープさよりも好奇心がまさるようです。
その後、利益重視で仕入れや調理をサボり「味が落ちる」という根本的な過ちをおかし、吉野家は倒産。再建後も合併や分離をくり返し、低価格競争やメニュー拡大の末に再び赤字転落にいたったということです。最初の倒産は吉野家ブランドと実経済のズレに老舗の驕りが混ざった感じでした。しかし、今回の吉野家の赤字転落は熾烈な外食産業で生き残りを賭けた戦略の末の低迷です。
昨今の吉野家の印象はメニューの多さと明るく改装された座席メインの店舗でしょう。以前の並、大盛といった、量の違いだけのメニューやお新香や玉子の有無だけではありません。牛丼一筋とうたっていたメニューですが、アメリカ産牛肉が入ってこなくなったあたりで、同業他社の多メニュー戦略に乗っかった感じです。当時は苦肉の策で豚丼を出していたんですが、べつに豚が苦肉というわけじゃありません。

 今では吉野家に似合わなかったファミリー層やアベック?に向けて、メニューの選択肢を増やす作戦です。結果として気軽に立ち寄れる吉野家は熾烈なファミレス業界の下位グループになっちゃいました。ソレまで支えてきたピット作業のような回転率の吉野家ですが、煮込みや焼きなどメニューの多様化でファーストフードの業界のファースト(早い)でも下位になっちゃいました。
吉野家が切り捨てた顧客は「早い、うまい、安い」の時代の客です。うまいを忘れて倒産した吉野家は安いも280円時代に戻れるはずもなく、現在のコピーは「牛丼は、どこまでうまくなれるんのか」になっています。外食産業がうまさを追求することは正しいことですよね。でも、吉野家の存在価値って今半のすき焼き弁当よりも美味しい牛丼を、300円そこそこ出だすことだったのでしょうか?一番アドバンテージがあったのは注文したら15秒で牛丼が出てくる「早い」だったと思います。今は見かけなくなった気合いが空回り気味の兄ちゃん店長の「大盛いっちょ~」の復唱も懐かしいです。あーいうのが女子を遠ざけていたんですけどね・・・
現在の吉野家は誰のためのマーケティングなのか?誰のための改革なのか?裏目に出ちゃってるような印象です。

 すっかり牛丼な記事になっちゃっていますが、今回のテーマは新潮45の休刊です。休刊という言葉に「いずれ沈静化したころに復刊する気か?」と思う人もいるかもしれませんが、出版界の休刊は廃刊宣言に等しいのが慣例です。廃刊を武士の情けで休刊と優しく言い換えただけの言葉です。
休刊の追い込まれたのは杉田水脈議員と愉快な仲間たちのせいなのは疑いようがありません。しかし杉田水脈議員の論文がLGBT差別なのに掲載したことが原因というよりも、休刊するような雑誌だからそんな記事を掲載したというのが真実っぽいです。今回の休刊事件では過去に新潮45へ寄稿した作家やジャーナリストが休刊を惜しむ声はよく聞きました。何故か誰もが新潮45の仕事をしたことを得意になって語ってます。今回のような100%正論が吐ける案件では、より信憑性を高めるために「当事者ポジション」が重要なんでしょう。彼らが決まって言うセリフが「昔の新潮45はこんな雑誌じゃなかった」ということです。逆に現在連載中の作家やジャーナリストの方々は「こんな雑誌と承知で執筆してた」ってことなのかな?
惜しむ声は書き手の側からは聞こえてきますが、次号からは読むことができなくなった読者からは惜しむ声が聞こえてきません。何故聞こえてこないのかといえば、定期購読してる人は全国に20000人弱しかいないからです。日本の本屋さんの数が12500店くらいなので全ての書店に行き届いてるとも思えません。
そもそも新潮45という本を見たことがある人がどれ程いるでしょう?カタチとしてはA5サイズのゴツい感じの本です。新潮45のライバル誌「正論」や「Hanada」や「WiLL」といった右巻き御三家もA5サイズの本ですね。

 ちょっと牛丼の思い出が過ぎちゃったのでLGBT云々は視界の記事に持ち越しです。


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家族と仕事と恋愛と - 2018.09.11 Tue

鴨居まさねさんの「にれこスケッチ」です。

 鴨居まさねさんはデビュー当初から少女マンガというよりも女性誌マンガ家って印象でした。当時ミリペンでマンガを描く人が増えてきました。そもそもマンガはGペンとかカブラペンとかで描くモノだという決まりがありました。マンガを描いたことがない人にもイメージは湧くと思います。いわゆるつけペンというものです。つけペンというものはそうそう上手く描ける代物ではありません。
誰もがお絵描きを始めたのは幼児期のクレヨンからだと思われます。お絵描きの遍歴はクレヨンから色鉛筆、絵筆、鉛筆、シャーペンと進化していきます。不思議なんですけど最初から彩色こみで絵を描かせるんです。幼児が最初に手にする画材は12色のクレヨンで「好きに描いてごらん」って言われます。やがて色鉛筆を買ってもらい、小学校に入ると水彩絵の具が主流になります。
小学校を卒業するまでは絵画は美術の時間ではなく図工の時間です。図工は基本的に「自由に描いてごらん。好きに作ってごらん」という方針の授業です。すべての小学校の先生に絵心があるワケでもないから、作品の芸術性なんかは採点基準にはありません。「自由に描かせる」という教育方針のせいで、画材の特徴や使い方は一切教えない(教えられない)ということになります。
後に知ったことですが水彩絵の具は本来「透明水彩」と「不透明水彩 ガッシュ」に分かれます。透明水彩は水墨画をカラーにしたようなイメージで、ガッシュは水性の油絵っていう感じです。透明水彩の特徴は白を塗るという概念がありません。しかし実際に図工で空を白く残すと、先生に「手を抜かずちゃんと全部塗りなさい」って怒られます。空は空色っていう不思議な色を塗らされます。「じゃあ雲は雲色に塗るんでですか?」ってことになって図工が嫌いになる子もいると思います。自分がそういう子どもでした。
色の調合の仕方も色の乗せ方も教えずに自由に描かせるせいで「絵画が面白くない」子どもが増えてるんじゃないでしょうか?音楽の時間にたてぶえを渡して「穴を指で塞いでプーとやってごらん。じゃあ自由に音を鳴らしてみようか」っていう授業はありません。笛の吹き方は教えるのに、絵の具の溶き方すら教えないのはどうなのかな?

 マンガはつけペンで描くという決まりができたのは、手塚治虫さんをみんなが真似たからだと思われます。最初はふっくらとしたフォルムのカブラペンを使っていたとのことです。全国のマンガ家志望者たちがこぞってカブラペンを買ったのは想像できます。そもそもつけペンはアルファベットを筆記体で書くためのものです。横文字のアルファベットは書く方向性が一定ですが、日本語はタテ・ヨコ・ナナメなので自由度の高いペンが求められます。後に出たGペンはやわらかくして強弱がつくのでマンガ用ペンって感じになりました。
これは万年筆で絵を描くようなもんですから、誰にでも真似できる芸当ではありません。以前はマンガ家を目指してもつけペンで挫折するパターンが多かったと思います。現在はデジタル作画でペンフリーなマンガ家さんも多くいます。どうしてもつけペンが苦手なんだけどマンガは描きたいという人たちの中でハヤったのがミリペンです。サインペンと同様のものですが指定された一定の太さの線が描けます。一定の太さで描けるということはメリットでもあり一定の太さの線しか描けないというデメリットもあります。Gペンのメリットは強弱がつくというものでした。強弱がないと生きた線が描けないということです。ミリペンやサインペンを認めているマンガ教則本もありませんでした。しかし、最近はマンガ画材としてはむしろつけペン以上に大きく扱われている印象です。昔のマンガ家でもミリペンが枠線に使いやすいことに気付いてる人も多かったです。

 70年代は「陸奥A子のような絵なら自分でも描ける」「大島弓子のようなストーリーなら自分でも描ける」という、マンガ家志望のうっかりさんが大量に出現しました。そして80年代は「ミリペンをつかえば岡崎京子くらいの絵は描ける」っていうエセ岡崎が大量に現れました。さくらももこさんもこの頃の横着マンガ家のひとりです。
画材が自由な例ではマンガ家としての安彦良和さんは筆でMSやアムロを描いています。そんな人はあんまりいないんでしょうけど、美術系の出身でマンガを芸術と思い込んでる人でアートな画材のマンガを描いてる人もいなくはありません。安彦さんのスゴいのは筆で普通につけペンのように描けることです。単純に線の強弱だけを比べるなら、ペンでは筆にかなわないです。
鴨居まさねさんは作画に自身があるわけじゃないけどマンガを描きたい。ミリペンだったら描けるんじゃんないかん?ってタイプでした。お話の筋立ては破綻してないしキャラもリアルなんだけど作画がリアルに描けない感じでした。キャラの描き分けと喜怒哀楽の描き分けは抜群に良かったので、鴨居まさねさんは『絵が下手なのではなくつけペンが苦手なタイプ』だと思います。マンガにおける絵の上手・下手は線の綺麗さや細かさではなくてタッチに魅力があるかどうかです。
実際には当時の女性誌(レディースコミック)あたりでは、鴨居まさねさんと似たり寄ったりな絵のレベルのマンガ家さんは山のようにいました。しかしセリフやモノローグなどの文章のセンスがずば抜けているので、読んで面白いマンガ家っていうのはそんなにいません。森本梢子さんとかもそうですが、マンガ家は面白ければちゃんと生き残るもんです。

    ブログ画像 にれこスケッチ JPEG 

 初期作品で主人公が町工場のボンクラ娘が社長(父親)の秘書になるお話のマンガがターニングポイントだったと思います。この作品の主人公はトレンディドラマ全盛期のレディースコミックのような鈴木保奈美的OLや浅野温子的バリキャリではありません。出世作の「SWEETデリバリー」ではオリジナル挙式を企画する会社のお話でした。女性誌向けマンガのテーマが彼氏や自分の浮気からの三角関係から、お仕事と恋愛の板挟みへ変化していった時代でもあります。鴨居まさねさんは作中にヘンなお仕事を取り入れるのが上手です。最近では麻生みことさんが抜群にうまいですね。
鴨居ワールドは変わったなお仕事パターン。太陽アレルギーでドラキュラ生活のキスケさんや、屋上に上がれない高所恐怖症などのヘンなマイノリティー。あと欠かせないのが、ぶちゃいくな猫。解くに猫好きのマンガファンには高い支持を得てるようです。
表題の「にれこスケッチ」は小学1年生で初恋した“かっこいい清田くん”を思い続け、28歳になった今も清田くんの傘工房に弟子入り志願して断られるお話です。何だかんだで稼業のブラシ屋を手伝うことになって、元彼も登場してなんやかんやの展開です。ストーリーの構造は志村貴子さんの「こいいじ」に似た設定です。「こいいじ」は複雑にこじれた人間関係ながら稼業の銭湯を中心としたホームコメディを狙った作品です。銭湯のホームコメディといえば「時間ですよ」ですね。先日「にれこスケッチ」も往年のホームコメディを彷彿させてることに気がつきました。
うちのBlu-rayデッキは起動させるとまずBS12がつくようになっています。これは録画中のサッカーが最初に移らないためです。仕事から帰って「録りためてる愛者遍歴を観よっと」とスイッチを入れると水前寺清子さんの顔がBS12に出ていました。BS12では夜8時の枠で古いドラマの再放送をしてるんですが、水前寺清子さん主演の「ありがとう」をかなりの間放送していました。今はマチャアキの「天皇の料理番」をやっています。
「ありがとう」は水前寺清子さん演じるはすっぱな娘と、山岡久乃さん演じる母親との母子家庭を中心にしたドラマです。それに青臭い石坂浩二さんとのしょっぱい恋愛。山岡久乃さんは森光子さん、京塚昌子さんとともに「三大昭和のお母さん」で知られています。さらに付け加えるなら、いかりや長介さんでしょうか?ちなみに三大人妻は岸恵子さん、いしだあゆみさん、黒木瞳さん・・・?

 さすがに「ありがとう」の初回放送当時は知らないんですが、再放送のシーンを観てると決まってちゃぶ台を囲って山岡・母がチーター・娘に小言を言っているんです。しかもチーター娘が減らず口を利いてさらに叱られるパターン。「ありがとう」の魅力はこの巧妙洒脱な母娘の会話です。このドラマの会話を書いていたのが脚本家の平岩弓枝さんでした。さすが文豪ってことで納得ですね。
「にれこスケッチ」は山岡さんとチーターの掛け合いをマンガ化したようなテイストの作品です。傘工房はともかく稼業のブラシ屋をおばあちゃん、母親、末っ子の楡(にれこ)の三代で切り盛りするホームドラマです。長女、次女は理系エリートで所帯持ちですが、みんなが末っ子の楡に優しいので安心感のある仲の良さです。
鴨居まさねさんの作風は悪役や嫌われ役を出さずにお話を成立させられるところにあります。敵味方の対立図を作るほうがシナリオ的には楽ですが、鴨居まさねさんはあんまりギスギスさせません。主人公の怒りや憤りのシーンはキレッキレだけど、おかざき真里さんのような「世代に問題提起するような強さ」は好まないようです。
ホームドラマをテーマにしたマンガは意外と少ないです。マンガの本来の対象年齢が子ども向けなので、本格ホームドラマって馴染まないところがあります。似たテーマで人情ドラマがありますが、人情がストーリーの中心になるとまた別ジャンルになります。家族という同じメンバーでジンmン生最高の瞬間(感動)を求めることなく、淡々と連載されながら日々の暮らしが面白いというのがホームドラマのツボです。それこそ橋田壽賀子さんのホームドラマのような王道のホームドラマを楽しむ感じで読めるマンガです。
以前、どこかで読んだのですが「活字界に鴨居まさねファンは多い」というのを作家だか誰だかが書いていました。言い得ていたと思います。マンガを見る人よりもマンガを読みたい、むしろ小説を読みたい人にこそ鴨居まさねさんは向いてるんだと思います。鴨居まさねさんの文体が心地よくなるとミリペンの温かいタッチが利いてくるんですよね。
あと、猫好きに人にもオススメ。マンガ界でも有名な猫好きマンガ家のひとりです。


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トトロの適性年齢 - 2018.09.06 Thu

宮崎駿さん監督作品「となりのトトロ」です。

 記事の内容は日テレ系の夏休みジブリ特集からです。本当はお盆休み後に書きたかったんですが、さくらももこさんの訃報があったので記事が前後しちゃいました。ズルズルしてる間に夏休みも終わっちゃいましたね。

 今さらトトロとか言ってる人も珍しいんでしょうけど、前々回からポスト宮崎駿にこだわって記事を書いてきたのでケジメと思ってください。普通に考えてトトロで新事実はもうありません。作品自体が1988年公開です。まだ徳間書店が角川書店より勢いがあったころで、アニファン的にはアニメージュ対ニュータイプって感じでした。ネットで調べたらテレビで放送されること実に16回らしいです。日本中でトトロを知らない人がいないと言い切れるくらいに有名なアニメです。また「もののけ姫や」や「千と千尋」のように解釈の相違とか、「ポニョ」や「風立ちぬ」のような、賛否が分かれる作品でもありません。誰もが同じ印象を持てる珍しいアニメでしょう。

 現在30歳未満の人はトトロを劇場で観ていない世代になります。公開当時はリアルにアニメブームだったので、トトロの適性年齢よりも「火垂るの墓」の適性年齢の人のほうが劇場に多かったと思います。しかし「火垂るの墓」は野坂昭如さん+高畑勲さん、しかも制作が新潮社という子どもアニメとしてはどーなの?っていう感じでした。
トトロのぬいぐるみを抱いてる子どもに焼夷弾をあびせるっていうのもどうなんでしょう?「子どもには、こーいう作品を観せなきゃいけない」っていう考え方に賛同できません。小さい子どもが観たいと思うものを観せてあげて欲しいです。その作品の内容やメッセージが無意味だとしても、まったく問題はありません。幼稚園児は幼稚なものを観るべきというにが大前提です。
モノの道理や社会の仕組みを伝えないまま、子どもに狂気や悲劇を見せて呪いをかけるのはよくないと思います。戦争の不条理とか真実とか、語ってるオトナは気分がいいのでしょうが、語られる子どもは迷惑だったりします。
自分はアニメ屋としての高畑勲さんを別格にリスペクトしています。しかし「火垂るの墓」はつまんなかったアニメ作品の上位にランクしてます。だいたい反戦アニメっていうスタイルがあんまり好きじゃないんでしょう。「この世界の片隅に」のアニメ版は観ていませんが、原作版は「戦争反対!」とアジテーションする目的ではなくて、昭和史として戦時中の呉がどういう日常だったのかがドラマだと思ってました。「はだしのゲン」も初回?は広島の戦中戦後ドキメンタリーでした。両方とも最初は呪いをかけるのではなく事実を描くことが目的でした。それは作者の作品に対するテーマとは別の部分で、作品の構成がそうなっているということです。事実を描くことがテーマだろうに作品が成長すると、事実を真実にすり替えちゃいます。とくにメディアミックスされて表現者が変わっていくと顕著に表れる現象です。元ネタの原作のメッセージをより誇張するので作品が呪いの書のようになっていくんでしょう。
原作は野坂昭如さんが「オール讀物」に掲載された直木賞作品です。「オール讀物」は文藝春秋の文芸たる由縁な雑誌で、自分の父親が生前に毎月愛読していたので常に家にありました。自分は読まなかったけど。原作が文藝春秋でアニメ制作が新潮社というのも今となっては不思議ですが、幼児が手を出していい部類の作品ではありませんね。
「火垂るの墓」は観ている子どもにストレスを与え続ける脚本です。戦争の恐怖よりも主人公の兄妹が隣人から受ける恐怖や、子どもが逃げ隠れしなきゃいけない異常な世の中から真実を直視しなさいっていう立ち位置で語られます。「コレは戦争の真実だから、今は意味がわからなくても何かが心に残るはず」っていう風にオトナは見せたがるんです。その何かが呪いでしかないのですけど。
「火垂るの墓」の適正年齢は小学校高学年の読書感想文が得意な自称優等生タイプです。新幹線がロボットに変形するとJRのダイヤが乱れるとか、モノの道理や社会の仕組みがわかってくる年頃にちょうどいいでしょう。高校生以降は当然ながら原作を読めってことです。

 「トトロ」と「火垂るの墓」は1本目がぬいぐるみが空を飛ぶような作品、2本目が妹が飢えで死んでしまうエンドの不思議な同時公開でした。ジブリファンのまっくろくろすけな子たちは辛気くさいアニメも観せられ、オトナな作品も理解できる自称優等生は迷子の幼児を捜索するだけのアニメを観せられました。非常に味わい深い2本立てだったんですが、自分は幼児でも優等生でもなかったので、どっちの作品にも「う~ん?」って微妙な感じでした。このとき映画館へ行った目的もデート的な何かだったので「ラピュタ」っぽさを期待してたんですけど微妙な感じでした・・・
この2本はコンセプトとか関係なしに、単純に尺の都合で2本立てになったようです。大きいお兄さんたちは平気でしょうけど、トトロの歌を合唱しにきた子どもたちは2本終わるまでおとなしく座っているのは大変です。引率するお母さんにとってもいい迷惑ですよね・・・
ここからは「トトロ」のハナシになりますが、この作品は多くのファンが最もジブリをイメージさせる作品でした。ジブリ的な女の子が主人公で、良いお父さん、優しいお母さん、役に立つおばあちゃん、おそのさんてきな近隣など。レプカとか出てこないところがモノ足りないんですが、レプカがいないことは作品の是非が分かれるところでした。
ここからはネタバレになっちゃうので、これから「となりのトトロ」を観るつもりの人や、TSUTAYAで借りっぱの人は注意してください。

「となりのトトロ」のあらすじ・・・

『母親の療養のために都会から埼玉県の所沢あたりに引っ越してきたサツキとメイ。新居はまっくろくろすけが住み着いていた古びた空き家。メイがトトロと遭遇しサツキも出会う。母親の容態が急変し退院予定日が先送りになる。イジけた姉妹は珍しく姉妹げんか。勝手に母親の病院へ向かったメイは案の定迷子に。村中で大捜索だが見つからない。トトロはサツキを猫バスに乗せて猫バスがメイを見つける。猫バスで病院に向かうと母親は風邪でちょっと退院が伸びちゃった田家と知りひと安心』

完結に書けば『トトロにあって猫バスにのってお母さんに会いに行くお話』ってお話です。レプカが出る場面はありません。それどころかイヤなオトナは一人も出てきません。都会から転校してきたサツキをいじめるヤツらも出てきません。カンタは論外・・・
この手のストーリーでは都会っ子VS地元っ子や村社会VSよそ者の構図が欠かせません。何故ならばそーいう構図にしたほうがお話を組みやすいからです。しかしそーいうステレオな図式を幼児が楽しいストーリーだと思うでしょうか?サツキ視点でも転校生を仲間外れにするお話を観るのが楽しいわけじゃありません。
あんまり指摘されていないことですが、この作品ではトトロという謎の生物?との遭遇シーンに特徴があります。そもそもメイが最初にトトロ一家?を発見するんですが、そのことをお姉ちゃんもお父さんも否定しないことです。ファンタジーで必ずある「信じてよー、本当に見たんだよー、ウソじゃないよー」っていう不毛なセリフが省かれてるんです。実際にトトロを見ることが出来たサツキはともかく、お父さんの神対応も見事です。トトロは劇中で間違いなく存在するんだから、それをオトナのキャラが「そんなのいるハズないよ」って否定するのは観ている子どもにはストレスでしかありません。劇中の全てのキャラがメイのことを否定しないというのが「となりのトトロ」の特徴です。
メイの行動パターンも「何かいるからついて行く」とか「寂しいからお姉ちゃんやお母さんに会いに行く」といった、子どもが見ても何をやってるのかが理解できるアニメです。何故、普遍的に子どもい愛されるアニメなのかといえば、子どもが消化できるストーリーの作品だったからです。オトナになってから見直せと面白い作品っていうのはたくさんありますが、子ども時代に100%面白いって思える作品のほうが子ども向けアニメとして正しい作品でしょう。
オトナになってから「トトロ」を観た自分には20%くらいしか楽しめない作品だったんでしょう。楽しめたシーンは冒頭のオート三輪、まっくろくろすけ、サツキがお母さんに髪をすいてもらうシーンなど。もう少しカンタとイチャイチャしてあげて欲しかったですね・・・

改めて「トトロ」を観たらカンタのばあちゃんが、しまおまほさんのモノマネにしか聞こえませんでした。しまおまほさんクオリティー高すぎです・・・


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さよならまる子ちゃん - 2018.08.28 Tue

「ちびまる子ちゃん」の作者、さくらももこさんが8月15日、御逝去されました。

  今年もすでに半分が終わり吉報も訃報もたくさんありました。マンガファンとしてはマンガ家やアニメ関係者の訃報はとくに「うわっ」としてしまいます。そんな中でも高畑勲さんは多くのファンも何となく覚悟はしていたという感じでした。しかし、さくらももこさんは何のウワサすらないのに闘病中だったとのことで、誰もが「えっ?何で・・・?」っていう印象だったことでしょう。
人気マンガ家とかヒットメーカーという人はいくらでもいますが、国民的なという形容がつくマンガ家はそんなにいません。人気マンガやベストセラーを持ってるマンガ家でも、日本中に名前が浸透してる人は限られています。例えば鳥山明さんや秋元治さんなど誰でも知ってますよね。しかし「ジョジョ」や「デスノート」とか「進撃の巨人」や「花より男子」の作者の名前を、日本中の人が知ってるとは考えにくいです。日本人にとって当たり前に存在していたことが突然終わってしまう喪失感に、ただただ呆然とするばかりです。
しかし自分は不勉強なので「ちびまる子ちゃん」については詳しくありません。乳がんに対しても見識がないので出せるコメントも見つかりません。追悼記事を書くにしては知識がなさ過ぎるので公式のコメントを転載しておきます。

さくらプロダクション公式 http://www.sakuraproduction.jp/

 小倉智昭さんが自身の司会するワイドショーで「オレ、観たことないんだよなぁ・・・」ていう感じの発言がネットで叩かれてました。小倉智昭さんはアート系に造詣が深いキャラで通してるから、子ども向けマンガを知らないポジションをアピールしたかったのかもしれません。以前に訃報記事で取り上げた谷口ジローさんのことを「谷口ジローって誰なの?」っていうのならわかります。でもさくらももこさんのことや「ちびまる子ちゃん」を、マスコミ側の親分みたいな人が知らないアピールは情けないです。「ドラえもんって何なの?」っていうくらい世の中を舐めた発言です。テレビマスコミを自負するのなら「知ったかぶりでもお悔やみしろよ」って感じです。しかし自分の「ちびまる子ちゃん」の知識も小倉智昭さんとほぼ同じレベルです。
「ちびまる子ちゃん」といえば日本で一番有名な小学三年生です。しかし、自分が知っているまる子情報は『登場人物のケンタはエスパルスの長谷川健太である(当時)』『友蔵 心の俳句』そして『主題歌が♪パッパパラパである』くらいです。もう自分が知っているまる子情報は底を打ちました。
逆に知らないことを挙げれば『まる子の本名はももこ』とか『親友のたまちゃんの本名はたまえ』とか・・・脇役の子どもたちの顔はわかるけど、名前やキャラ設定がよくわかりません。
最近だと「後から使えるポイントよりその場で安くなる方がいいじゃん」ですね。自分はヨドバシポイント派ですけどね。
アニメ版が始まったころ B.B.クイーンズの「おどるポンポコリン」が大ヒット。しかし自分はこのマンガの内容については、読んだことがないのでそれ以上のことをほとんど知りません。ポンポコリンの頃は絶頂に遊びほうけていたので、日曜の夕方にテレビを観ることなんかほぼありませんでした。でも「ポンポコリン」のヒットは印象に残ってます。当時、賑やかしバンドは米米CLUBやサザンオールスターズが人気でした。でも、B.B.クイーンズとモダンチョキチョキズのほうが、楽しそうに演奏していたと思います。米米CLUBやサザンは一生懸命楽しそうを演出してる感じがしてました。「おどるポンポコリン」はカラオケで女子が歌ってるときに♪タッタタラリラ~と叫ぶ間合いが男子の価値を決めていました。自分はキーが高かったのでナイスなタラリラでしたね。濱田マリさんの思い出は「あしたまにあ~な」ですが、覚えてる人いるんかいな?「あしたの予定はきまったかな?」ていうやつですね。「あしたま!」

 自分がさくらももこさんの作品を読んでないのは、単純に自分向けの作品ではなかったからです。掲載誌の集英社の「りぼん」の中でも箸休め的に使われる女の子向けギャグマンガだったので、積極的に読むという選択肢はなかったです。似たような作品で「あずきちゃん」もありましたが、作者の木村千歌さんのファンだったから読んでいたんですけどね。結果としては木村千歌さんを知ってる人は限られていますが、さくらももこさんを知らない日本人も限られてることでしょう。
代表作品は「ちびまる子ちゃん」の関連作品や「コジコジ」などなんですが、実はエッセイの出版数が半端ないんです。自分も「もものかんずめ」くらいはピンときますが、それ以降の著書もかなりありました。マンガ家としてイマイチだからエッセイストを公言する人もたくさんいますが、さくらももこさんは肩書きにマンガ家とエッセイストを併記してるのが納得できます。
さくらももこさんは多角的に活動していて作家やミュージシャン、クリエーターとの共同作品も多いです。メディアミックスも多いのですが不思議なほど顔出しNGなマンガ家でした。訃報ニュースでびっくりしたことは、ニュース映像でほぼ初公開の本人の写真がバンバン使われていたことです。顔出しNGの理由は読者の子どもたちが興ざめしないようにとのことだったはずです。原作者=まる子という図式の作品だからというさくらももこさんの配慮は完全に無視されちゃってる感じです。これからも子どもたちは「ちびまる子ちゃん」を観続けるのにいいのかな・・・?

 「ちびまる子ちゃん」はさくらももこさん自身の小学校時代の回想がベースになってますが、自伝的マンガではないのでエピソードは実話ではなく創作です。ケンタを始め他のキャラも実際の同級生をモチーフにしてるので『まる子=さくらももこ』って思われがちです。証言?によるとたまちゃんのキャラがホンモノのさくらももこさんらしいです。
マンガのキャラにはオーソドックスな配役のセオリーがあります。わりやすいのは藤子F不二雄さんの作品ですね。ドジな主人公、意地悪なガキ大将、金持ちの腰巾着、優等生のヒロインなど。なんでこんなステレオタイプのキャラにするのかといえばストーリーが組みやすいからです。少年マンガの主人公はクラスで一番ダメなヤツか元気なヤツっていうのが一般的です。
対する「ちびまる子ちゃん」ではクラスに実在した同級生を、片っ端からキャラにしたっていう印象です。そのおかげで藤子F不二雄さんのような脚本の便宜上というより、生き生きとした脇役たちが印象的な作品になりました。TARAKOさんの名演技のおかげでじじむさいシニカルな女の子キャラが定着しました。少年マンガでシニカルなキャラを狙うと、どうしても「さよなら絶望先生」になったいます。屁理屈が一生懸命過ぎちゃうんですよね。まる子はさくらももこさんが教室で同級生を眺めながら「心の中で思っているけど口に出さなかったこと」をマンガ化した作品です。さくらももこさんの人物像はヘンな男子に向かって「あんたヘンだよね」って言わないタイプです。クラスはヘンな男子や、そいつに向かって「ヘンなヤツ」って口に出す女子が牛耳ってます。小学校低学年の教室内のコミュニテイでは、身体の大きさと口に出す無神経さが勝敗をわけます。自分も小学生時代に実感してました。

 「ちびまる子ちゃん」は親世代のレトロな共感で評価されているところが多いです。西城秀樹さんや山本リンダさんなど。笑点~ちびまる子ちゃん~サザエさんと見事な昭和の継投策です。今の子どもたち手とっては昔からやっているアニメだから、自動的に観てるっていう感じでしょう。連載当初のマンガ版がウケたのは、昭和レトロ回帰のオトナではなくて現役の女子小学生の共感だったと思います。だって掲載誌が「りぼん」だからオトナは読まないし、当然自分も読みませんでした。
当時の「りぼん」の連載で花形だったのは「ポニーテール白書」や「空色のメロディ」など。一条ゆかりさんの「デザイナー」やお涼さまの「アラベスク」などのややこしいマンガからラブコメ全盛になる過渡期でした。女の子にとってのラブコメは人生の上昇志向そのものが題材のマンガです。
当時無かった言葉でいえばリア充マンガですね。誰もがソレを求めてるしイトコの子が関心事の1位なのはわかります。でも「本当はまだピンとこないなぁ」っていうのんびりさんや「クラスの男子ってみんな汚いじゃん」っていう子たちも多いハズです。
まる子は彼女らの代弁者ではありませんし主人公という位置づけはそれだけでリア充です。では誰が共感したのかといえば、たまちゃんみたいなタイプの子です。たまちゃんはサイレント同級生なのでクラスの行事でリーダーになることも足を引っ張ることもありません。タマちゃんが見ている教室の景色がさくらももこさんの原体験と共感するんでしょう。
藤子F不二雄さんやなせたかしさんもオトナの分別で子ども向け作品を描いてました。やなせさんは子どもの心を忘れていないから「アンパンマン」を描いていたのではありません。児童向けの作家は子どもを児童と認識してる段階で子どもの心ではありません。しかし、さくらももこさんは子どもの心のまんまマンガ家人生を終えたマンガ家さんです。

 晩年、ちびまる子のパロディ的な新作「ちびしかくちゃん」を「グランドジャンプ」で連載してました。こっちは大人の心で描いたマンガっていうのがアリアリで、シニカルな要素を押し出した作品の評価も微妙だったようです。せっかく心の中のまる子がいい思い出いっぱいっていう感じだったのに、作者自身がチャカしてどうなのよ?って感じもします。
子どもの心でマンガを描いてる大御所に松本零士先生がいます。松本零士さんは大御所になる前は青年誌向けな作品も描いてました。しかし、いろいろ描き続けていくうちに残ったモノは松本零士さんの子ども時代に築き上げた要素を、子どもの心のまんまで描いてました。今も存命ですけどね・・・
集英社も復刻に前向きだろうから、過去の作品も引き続き購入できるようです。そのうち愛蔵版とかも出るんだと思います。アニメ版は継続する事が決まったようです。でもそれは止め時を失ってしまったともいえます。「ドラえもん」も「クレヨンしんちゃん」も「サザエさん」も、止め時を失ったアニメです。マンガファンとしては作者亡き後っていうのがなんだかなぁって感じです。作品が終わることは、そんなに悪いことじゃないんだけどね・・・


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