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2021-04

新しいの日常とマスク - 2021.03.10 Wed

弘兼憲史さんの「相談役 島耕作」と、あだち充さんの「MAX」です。


 「島耕作シリーズ」と「MAX」は何の関係もないマンガです。しかも弘兼憲史さんとあだち充さんにも共通点はありません。あえて似ているのは「オーバー70歳でバリバリ現役のメジャーマンガ家」というくらいです。
ネットニュースのしょっぱい情報ですが、テコット(旧 初芝電産)の相談役の島耕作氏がコロナウイルスに感染したようです。いつも食べているカレーの味がわからなくなった島耕作がPCR検査で陽性反応が出るストーリーです。隔離生活など実体験談を元に描かれているそうです。
日本経済新聞に載っていた弘兼憲史さんのコメントで『 知人から療養生活や後遺症の実態を聞き「これは描かねければ・・・」と島自身が感染する展開を決めた 』とのことです。弘兼憲史さんは「島耕作シリーズ」を情報マンガと位置づけているそうです。コロナ問題もM&Atや敵対的TOPと同じように経済的なマンガの題材としてこれ以上のモノはありません。
そもそも「島耕作シリーズ」は、現実社会とリンクした経済ドラマとオフィスラブが中心のストーリーです。当然ながら現実社会の中で一番ホットな話題はコロナウイルスなんだから・・・
自分は「島耕作」を1話も読んだことがありません。弘兼憲史三部作でいえば「人間交差点」と「島耕作」は読んでいませんが「黄昏流星群」はベテラン世代のガチロマンスが珍しい作品なので読んでいます。読み切りマンガを描く技術は弘兼憲史さんの実力の確かさを証明しています。近年は単発のストーリーを量産できるマンガ家が少ないのです。マンガを勉強する人なら起承転結がしっかりしている「黄昏流星群」はテキストとして有効だと思います。70代のラブシーンとか、見たくないモノも読まなきゃいけないけどね・・・


 2020年の初頭、屋形船~クルーズ船という船舶問題から始まったコロナウイルスは、休校、卒業式中止、オリンピック延期、志村けんさん死去、緊急事態宣言、謎のアベノマスク配布、10万円全員プレゼント・・・そして甲子園やインターハイの中止という・・・てんやわんやな一年でした。
そもそも飲み歩くとか外食に頼っている生活スタイルでもないので影響は少なく、売り上げに関係なく固定給は貰えるサラリーマンのメリットのおかげでそれなりの生活を維持してきました。このことは次の記事で書こうと思うんですが、世の中の大変さと自分の日常の大変さを混同しないということは重要な気がします。
困った事といえばJリーグが中断&無観客開催になっちゃったことですね。自分にとってはJリーグなんですが、その他のスポーツ、音楽、演劇、演芸、映画、講演会・・・様々なメディアカルチャーが痛手を負った1年でした。
マンガの世界で気になっていたのは「作中の日常のシーンにコロナ騒がどう影響するのか?」です。正確にいえば「マンガ家がコロナをどう作中に取り入れるのか?」ですね。去年の春頃までは「この騒動が早く収束してくれないかな・・・」って誰もが思っていました。
オリンピックにしても今年(2020年)は無理だから来年(2021年)に延期したのですが、だったら今年(2021年)はできるのか?っていう疑問が日本だけでなく世界中が思っていることでしょう。
これはコロナという厄災が、短期的にどうにかなる問題ではないということです。最初に問題になったのは発表する媒体がコロナ対策で閉鎖や規模縮小になったことです。スタジアム、ライブハウス、イベント会場・・・すべて三密なのでNGになりました。テレビはアクリル板や画像編集を駆使して、三密じゃないよアピールで乗り切っています。「十分に配慮して撮影しました」という言い訳テロップなどや、出演者に過剰なほどの配慮アピールをさせたりしてね・・・
ドラマのシーンでは役者が誰もマスクをしていないけどの撮影以外はちゃんと配慮してます。次に問題になるのはドラマやCMで他人と会話するシーンでマスクをしていないコトの不自然さの扱いです。
もうバラエティー番組やロケ番組っでのノーマスかは有りえませんが、ドラマなどの創作モノにマスクが必要か?という問題です。
大河ドラマや朝ドラなど、2020年以降の時代設定ではないストーリーはノーマスクが当然です。しかし現代ドラマがノーマスクというのは、街角の景色としても違和感があります。最初は日常がいつ戻るのかの目処が立たない状況でした。しかし今では誰もが2019年以前の日常ではない景色がこれからの日常になると覚悟した雰囲気です。
象徴的なことがこれからもマスク無しで外を歩いちゃ行けない社会が続くということでしょう。政府や自治体が「コロナは収束しました。もうマスク無しで生活しても大丈夫です」と宣言できるとは思えません。


 日常が変わることが直接ストーリーに影響するのが部活マンガですね。スポーツマンガというジャンルはルールや大会様式をベースに世界観が作られています。そこでウソを描くことは作品の説得力を失うコトに繋がります。難しいことに、競技のルール変更はかなり頻繁に行われています。ボクシングなどのより安全に考慮した新ルールやサッカーのVARの導入など。「あひるの空」では大会中にもバスケットのいルールがどんどん変わっていくので、作者が割り切ってこーいうルールの時代の設定と言い切ったりしていました。
野球は多少のルール変更があっても、やっていることは変わらないので問題は無かったのですが、新しくタイブレークが導入されると野球マンガのストーリーが変わってしまうと思われます。スポーツマンガだからルール通りに進行するのが正しいのですが、予選1回戦ではそんなセリフがなかったのに、準決勝からルールが変わりましたっていうは読んでいて何だかなぁって感じです。「野球は7回でイイじゃん」などの極端なルール変更がいつあってもおかしくないんですよね。
その最たるものが甲子園やインターハイの中止でした。その他の国際試合も含めてプロ・アマほとんどの競技者が影響を受けた1年でした。運動部だけじゃなくて学校生活そのものが新しい日常に対応することになって、卒業式。入学式、修学旅行、学園祭、はダメ。授業もリモートで同級生に会ったことがない、音楽の授業だは歌うこともダメ。その影響は学園マンガの普通の景色を一変させるくらい異常な事態です。
これらのコロナ対応の“新しい日常”をマンガのストーリーに反映させる場合は、すべてのキャラクターをマスク着用を義務づけなければなりません。もし自身の作品を2020年、2021年に設定しているのならばマスク無しの日常描写はありえません。
大抵のマンガ家や出版社は、マスクの義務化や観客数を規制した世界を例外的なことのように思い込もうとしています。「今は特殊な状況であって、ストーリー上はそれまでの日常のままで・・・」っていう考えだったと思います。もし「こち亀」がまだ連載中だったら飲食店の自粛やマスク、給付金詐欺なんかをネタにしていたでしょう。


 2020年の5月にあだち充さんの「MIX」が「ゲッサン」の6月号から休載するとの発表がありました。前後してさいとう・たかをさんの「ゴルゴ13」が52年の歴史で初の休載決定とのニュースがあったばかりでした。さいとう・プロは完全なマンガ製作会社なので、御大の健康はもとよりスタッフのことも考えて活動休止を選んだようです。
あだち充さんにいたっては、自身のセキュリティー以外にも甲子園の中止がウワサされる事態(後に開催中止が決定)に「野球マンガ処じゃないだろ」っていう思いもあったようです。それを思い出したのは「MIX」の最新刊17巻に当時の休載期間中に発表した「リハビリ読切 足つりバカ日記」が収録されていました。この作品が本編の第96話と第97話の間に載っているので、ここが休載したタイミングだったのでしょう。
この段階であだち充さんも「甲子園が開催されたとしてもアルプス・スタンドが満員の応援団で埋め尽くされるような状況にはならない」と考えていると思います。「MIX」は歴史的名作の「タッチ」の後日談で、あれから26年後の明青学園の野球部のストーリーです。いかにも「タッチ」の続編っぽい宣伝だったのですが、ストーリーで引きずっているのは上杉達也が甲子園で優勝した年の翌年のメンバーです。最初に読んだ時に感じたのは「これじゃない感」でした。
「MIX」が明青学園でなく、懐かしいキャラが出てこなくても、それなりにあだち充クオリティーの作品になったと想像します。逆に「タッチ」のキャラが重要な役まわりってわけでもありません。今後、いい年増女?になった上杉南(旧姓 浅倉)が投馬の前に現れて・・・」っていう感じになるんだったら続編の意味があるんですけどね。達也はとっくに死んでいて南は未亡人ていう設定で!


 あだち充さん自身はコロナの社会に思うことがあるでしょうし、それは当時のインタビューなんかでも語っていました。しかし作品内では「このマンガの世界ではコロナも甲子園の中止も存在しないこと」にすることを決めたようです。そうしなければアルプス・スタンドが描けなくなるから。
単純に作中の夏の甲子園大会が何年度の大会なのかを明記していません。マンガは最短でも2~3ヶ月前に描かなければいけません。単行本は雑誌掲載から1年~数年経たなければ出版されません。そのズレは緊急事態宣言が出たり解除されたりの現実社会をマンガに反映させることの難しさになっています。
さいとう・たかをさんは「ゴルゴ13」の連載再開にあたって「ゴルゴの世界でコロナは反映させない」と公式に発表しました。デューク東郷は目で語るからマスクしていても問題は無いらしいのですが、世界に振り回されずに読者と向き合いながら創作していくとのこと。
うっかりコロナ対策で主人公にマスクをさせちゃうと、そのマンガはもうすべてのキャラをマスク顔で描かなければいけなくなっちゃいます。これはテレビドラマにもいえることですが、多くの創作に携わる方々は2020年~21年を無かったことにしたいんだと思います。
安倍夜郎さんの「深夜食堂」も小池百合子知事が「緊急事態宣言中だから、みなさん深夜の外食は控えて下さい」と口を酸っぱく訴えていますから、営業が立ちゆかなくなりそうです。「深夜食堂」で「持ち帰りランチ弁当始めました」っていうのも作品の世界観に関わります。いっそ、ある深夜に常連が店の前で「閉店しました」という張り紙の前で立ち尽くすラストの最終回だったらスゴいメッセージだと思います。「深夜食堂」はもともと不定期連載なんだから、日常が戻るまでは休業でも読者に違和感はないんだろうけどね。
 

 今後、甲子園に観客が戻らないとしても地区予選を再開させたあだち充さんと、すべてのキャラクター(モブも含めて)にマスク着用の義務化を選んだ弘兼憲史さん。どっちの選択が正しいのかの答えは誰にも判りません。
オリンピック開催の頃には今までの日常が戻ってくるのなら、空白の2020年は無かったことにして連載は可能です。マンガの中の時間の流れは大ざっぱなので1年や2年くらいは読者も気にしません。だってマンガは原則的にフィクションだから・・・  


「ほぉ」って思ったら押してね

日常系の最高傑作 - 2021.02.14 Sun

夢路 行さんの「あの山越えて」が全36巻で完結しました。

 「あの山越えて」は秋田書店の「フォアミセス」で2002年から2020年まで連載されました。夢路 行さんって誰という方はウィキペディアで検索すると、本文がたったの2行、作品リストが5作品のみで作品の個別情報はひとつもありません。ウィキはオフィシャルが作る辞典ではなくて、その項目に詳しい人が自主的に書き込むメディアです。夢路 行さんはキャリアのわりにウィキに書き込みたいと思うようなマンガファンやマニアが少ないからでしょう。しかし、熱心なマンガファン以外に夢路 行さんの作品を買う人がいるのかな?って思います。
「熱く語らない夢路 行さんのことを、マンガを熱く語らない読者が静かに応援している」という図式が見えてきます。熱心なマンガファンでも夢路 行さんの作品論を語るような人は少ないんじゃないのかな?
そもそも夢路 行さんの作品のジャンルは「ファンタジーをベースにした日常を逸脱しないくらいの寓話」とか「薄~い味付けのSF」や「肉感ゼロなポヤっとした恋愛もの」っていう感じのやわっこいマンガの印象でした。ジャンルでいえば少女マンガ家なんでしょうが、夢路 行さんの読者は少女マンガを読んでいるつもりはないんでしょう。
70~80年代にニューウェーブ・マンガが台頭したころの少女マンガ系ファンタジー型ニューウェーブの一派っていうイメージでした。ニューウェーブ・マンガというのはそれまでの少年マンガ誌、少女マンガ誌、劇画マンガ誌の枠に入らないマンガのジャンルでした。
「ニューウェーブ」とは、描き手よりもマンガの読み手の側が「自分たちの読んでいるのはサブカルチャーなマンガ」と言いたかっただけです。主に「エロマンガではないサブカルなエロ」という分野と「SFやファンタジーを全面的に認める」という分野です。
サブカルなエロがエロマンガとどう違うのか?というのフワっとした感じだったんですが、当時はファンタジーというのも一般誌では嫌われるジャンルでした。夢路 行さんは「ブーケ」という集英社では尖った少女マンガ誌の出身ですが世間を騒がすようなヒット作を描くこともなくマイナーマンガ家としてベテランのキャリアを気づき上げていました。
ファンタジー系マンガの作者は長続きしない傾向ですが、夢路 行さんは1983年のデビューから未だにファンタジーを描き続けています。「ファンタジー=子ども向け」っていうのに対して、夢路 行さんは初めから対象年齢を高く見積もってマンガを描いていたんだと思います。主戦場が少女誌から女性誌へ移ったことでヒューマン・ファンタジー?の効果が作風にマッチしてきた感じです。もともと描きたかったのが童話ではなくて寓話なのかもしれません。
 夢路 行さんの得意なのは、月刊や編月刊の単発や読み切り連載です。ファンタジーゆえに構想10年っていうイメージよりも、思いつきでストーリーを考えてるっぽい作品が多かった印象でした。
「あの山越えて」は秋田書店の主要女性マンガ誌の「フォアミセス」で連載されていました。このマンガ誌は戸部けいこさんの「光とともに」や上原きみ子さんの「いのちの器」などレディースコミックの中でも“ちゃんとしたマンガ”が掲載されているのが特徴です。秋田書店は後発マンガ誌故に青年誌も女性誌もムチャ(エロ的な意味で)しがちなんですが「フォアミセス」は良心回路が作動しているのが特徴です。


 「あの山越えて」という作品には、それまでの夢路 行さんの非現実的な展開(ファンタジー要素や甘々な展開)が一切ありません。
ストーリーは・・・『主人公の君子さんが脱サラで農業を始める夫とUターンして、彼の家族と同居することになる。君子さんは田舎の小学校の教師になるが突然の田舎暮らしで・・・」っていう感じのストーリーです。大石家(旦那の実家)での田舎の大家族暮らしになった主人公の日々のあれこれが物語の中心になります。
連載当初は環境が激変した君子さんに降りかかる“田舎暮らしの苦労”がマンガの主題だった感じです。嫁姑問題や勝手が違う村社会のしきたりなどですね。この作品は農業マンガジャンルというジャンルに分けられがちですが、実家が農業なだけで君子さんは農業に関与していません。出版社の考えた作品の公式カテゴリーは『カントリーライフ物語』です。ましてや小学校の先生だけど学園マンガでも地方の教育のドラマでもありません。
多くの評論家は作品のテーマを検証したがるのですが、この作品はあくまでもカントリーライフのストーリーです。君子さんは土着文化の理不尽や深刻な家督制度の犠牲になるわけではありません。成り行きで始まった田舎暮らしですが、問題提起が目的ではなくてあくまでも「カントリーライフあるある物語」にこだわった感じでした。
最近のマンガでいえば、あいざわ遙さんの「まんまるポタジェ」が都会から田舎へIターンという同じ構造の作品です。こっちは主人公の塔子さんがバリキャリOLだったんですが、バリキャリ過ぎて刈ろうだダウンしてしまいます。見かねた旦那が田舎暮らしを提案し地方へ移住するお話です。こっちは主人公(塔子さん)が原因のトラブルを苦悩(混乱)しながら親子で成長していくストーリーです。
マンガの始まりは同じようなきっかけなんですが、エピソードに対する主人公の取り組み方が全然違います。環境が変わった生活の中で地元の人たちと上手く交流していくには、OL時代のスキルは通用しません。新たなコミュニケーションが必要になり、それが主人公の成長譚になっていきます。
対して君子さんは田舎暮らしに順応できたので、全編通して成長はほとんどありません。田舎の分校でも先生をそつなくこなし、教育問題を語るような熱いシーンもありません。問題が起こる(エピソード)のは君子さんではなくて児童のほうで、それすらストーリーが転換するほどの一大事ではありません。どれも日々のあるあるなストーリーに過ぎません。
そもそも成長しないといえば旦那も、旦那の両親も、旦那の兄も、親戚のイヤなおじさんも、姪も、姪の元カノも・・・誰も成長しません。少年マンガの場合は主人公の成長が求められますが、オトナが主人公だと10年そこらで成長するほうが不自然だったりします。自分の親や親戚に向かって「最近成長したね・・・」って思うことはないでしょう。でも、普通のオトナは成長しないんです。
しかし子どもたち(姪のまりなと双子の子どもや飼い犬そして君子さんの生徒たち)はリアルに成長していきます。「まんまるポタジェⅡ」ではハナちゃんも小学生に進学して、すっかりお姉さんっぽくなってきました。
子どもたちが成長がストーリーの中の時間の経過を表現しています。成長する時間のリアルさが成長しない大人たちと対比になっていて面白いですね。


 「あの山越えて」は「オトナは環境を改善するのではなくて、環境に馴染んでいくという」ことを原則にしています。君子さんは都会かぶれで嫌みなオシャレ感を田舎の住民へ押しつけるような“アホな女キャラ”ではありません。
君子さんがおかざき真里さんのキャラのような理屈っぽい女性だったり、稚野鳥子さんのキャラのような浪費癖のあるキャラだったら大石家の家族に受け入れられることもなかったでしょう。そーいう価値観の対立や、都会VS田舎という構造をテーマにしているストーリーではありません。
大石家の住人も地域や学校関係者も、その地域で住み着いている近隣の方々も都会から来た君子さんのことを「大石さんの次男の嫁」としか認識していません。マンガの内容も初期は君子さんに降りかかる問題がストーリーだったんだろうけど、大石家の家族や姪、小学校のほかの先生や生徒、農業の組合や移住してきた人など・・・ あっちこっちにエピソードが振り分けられます。
主人公の君子さんは嫁としても教師としても過不足なく、ほどよい社会性(先生ゆえに)もあるのでストーリー(事件)を起こしにくいキャラ設定なんですね。なにしろ夢路 行さんが「戦わない、争わない、不幸にならない」という平和主義者なマンガ家ですから・・・
「日常マンガ」というジャンルは何も事件が起こらないマンガではありません。あえて何も起こらないことを特徴にした日常マンガも多いのですが、何か起こることがストーリーの基本です。日常マンガの本質は日常を逸脱しない程度の事件が起きるということです。
同じようなホームコメディで無駄に深見じゅんさんの「ぽっかぽか」という無駄に長期連載だった作品がありました。こっちは社会問題や育児問題、深刻に悩む夫婦を、主人公のあっけらかんとした性格で解決する作品でした。
同じ「日常マンガ」の括りだとしても「ひとりで夕飯を食べました」と「社会問題を斬る」の、どちらも日常生活をメインに「日常マンガ」です。君子さんに社会へ発信するようなメッセージは一切ないけど、「フォアミセス」はマンガで社会的な意義を考えるような意識の高い人をターゲットにしているわけではありません。


 作品に対して読者の立ち位置は「一人称で主人公に感情移入する」と「三人称で客観的にドラマ全体の成り行きを見守る」というパターンに分けられます。マンガでははフキダシ以外にト書きでキャラの心情を吐露できるので主人公へ感情移入させるのが得意なジャンルです。これがアニメやテレビドラマ、映画になるにつれて、実写での登場人物の心の声(ナレーション)がテンポの悪さや画面的な不自然さにつながります。当然ながら小説がもっとも一人称な視点に合ったジャンルです・・・
それでは「あの山越えて」はどこの視点で読む作品なんでしょうか? このマンガを18年も読み続けてきた読者は「大石家の近所に住んでいる人」くらいの距離感です。知り合いだけど赤の他人というポジションで「未婚で双子を産んだまりなちゃんも大変ねぇ・・・」とか「あの義母さんは長男夫婦に甘いんだから・・・」っていうウワサ話を18年間も読んできたんです。
ストーリーの中の「それでどうなるの?」というドキドキは、主人公へ感情移入してのドキドキではなくて、よその家の出来事を「大石さんちは大変ね・・・」くらいのドキドキ感です。
「あの山越えて」はみのりの子どもが小学生になるまでの、おおよそ6~7年間くらいの物語です。何度も盆や正月が来て、何度も卒業式や新任の同僚先生が来て、分かれや出会いがあって・・・っていう感じの人生の日常を描いた作品です。単行本でラスト3巻くらいから誰もが「最終回はみのりエンドだろう」と予想できる終わり方でした。
自分にとって「あの山越えて」はとくに楽しみにしているワケでもなく、だからといって読むのを辞める踏ん切りがつくワケでもなくって感じでした。同じように「Papa told me」や「黄昏流星群」も定期購読化しています。新作への期待値よりも習慣で読んでいるようなもんです。
個人的にはマンガの連載は続けりゃいいってもんじゃないと思っています。惰性で連載を続けるくらいなら、スパっと終わらせて新作を読ませて欲しいんですけどねぇ・・・
しかし18年もの長期連載が終了した「あの山越えて」はその舌の根の乾かぬうちに続編がスタートしていました。「日・日・天のたより」というタイトルで前作「あの山越えて」の最終回から数年後の大石家を描く新シリーズで、すでに第1巻は出版されています。
物語は「あの山越えて」の最終回から数年後から始まります。前作は7年くらいのストーリーを18年かけて連載していたので、本編も時間の流れが現実とズレてしまっています。時間軸を調整するためにも完結からの新連載というのは合理的なアイデアだと思います。
正直な話、そもそも「夢路 行さんの作品がとても面白かった」とか「夢路 行さんのマンガはオススメ」って思ったことがありません。同じことが花田祐実さんのマンガにもいえます。両者ともどちらかといえば面白いマンガを描くタイプではありません。(どーいうタイプだよ・・・)
まだ「日・日・天のたより」を買っていないのは、単純に買いお忘れていたのですが、いい機会だから買うのを止めようかなって思案中です。最近は読むマンガの断捨離を進めています。2~3年くらい新刊が出ないマンガを処分しちゃう(続巻も買わない)方向です。目安はギリギリ「よつばと!」の出版ペースが合格ラインっていう感じですね。
だいたい読んだマンガは処分しているんですが、連載中のマンガの置き場所が悩みの種になっていました。「この山越えて」なんかは1冊買ったら1冊捨てるっていうサイクルなので、君子さんが最初に引っ越してきた頃や、まりなと勝が出会ったエピソードなんかはすっかり忘れちゃっています。それでも平気なのが日常系マンガの良いところですね。

でも、そのうち新刊も買っちゃうのかな? マンガを読むのは理屈じゃないから・・・


「ほぉ」って思ったら押してね

誰向けのアニメ? - 2021.02.07 Sun

片渕須直監督アニメ「マイマイ新子と千年の魔法」です。


 今回取り上げるのは、年末にBS12(トゥエルビ)の「日曜アニメ劇場」で放送された「マイマイ新子と千年の魔法」というアニメ映画です。BS12は単発作品の劇場アニメなどを硬軟おりまぜて放送するアニメ枠で、往年の名作や子ども向けなメジャー作品、マニアックな趣味性の強い作品、商業的な作品など様々なジャンルが観られるようです。
「マイマイ新子・・・って何だっけ?」という感じですが、同居人はわからない作品は取りあえず録画する方針です。「日曜アニメ劇場」は有名なアニメ作品よりも知らない作品をてきとーに観るのが目的だったりします。知らない作品と言いながらも「マイマイ新子・・・」というタイトルには、自分の記憶の何処かに引っかかっていました。
公開時に話題になった作品のかなって思いながらもオープニングのタイトル時にスタッフロールのようなものがなく、誰の作品なのかもわからないまま観ていました。知らない作品は先入観抜きで楽しむ主義なので、エンディング・ロールまでこの作品の監督が誰なのかわかりませんでした。
「マイマイ新子と千年の魔法」は、元ジブリの片渕須直監督でした。基本的にジブリファンというわけでもないので、ジブリ在籍中の片淵さんの印象はまったくありませんでした。片淵さんはジブリの「魔女の宅急便」のスタッフ等が独立して設立したSTUDIO4℃に参加。「アリーテ姫」で初の長編劇場アニメの監督になり、マッドハウスへ移り「マイマイ新子と千年の魔法」を発表しました。
「あ~、アリーテ姫の監督かぁ・・・」って思う人は本物のアニメマニアです。自分は「アリーテ姫」なる作品は知りませんでした。この記事を書くにあたり片淵さんの経歴をウィキで調べた知識の丸写しです。
ほとんどの人にとって、片渕須直っていえば劇場アニメ「この世界の片隅に」の監督の人ですね。自分も「マイマイ新子・・・」のエンドロールを観て「あっ、この世界の監督の人だったんだ・・・」って思い出しました。この作品にオープニングにはタイトルロールがありませんでしたので、90分くらい監督が誰なのかわからないまま観ていました。おかげで先入観なしで鑑賞できたんですけどね・・・


 「この世界の片隅に」は「マイマイ新子・・・」に共感した人たちの手で企画が進められた作品です。しかし、マイナーな企画ゆえに配給会社には響かず、クラウドファンディングでやっと公開にこぎ着けて最後は社会現象にまでなったヒットアニメです。
「この世界の片隅に」は正しいクラウドファンディングのお手本のような事例でした。一般のアニメファンが片渕須直監督の作品への姿勢を評価し、結果として出資したボトムアップな作品でした。
大手配給会社の営業に作品を見る目がないって結果なんですが、自分もどちらかといえば上映を拒否した配給会社の判断に近いです。こうの史代さんの原作マンガ版「この世界の片隅に」を途中で挫折した経験から、アニメ版にも何の期待もしていませんでした。
  「あのアニメの原作」 ← クリックすると当時に記事へ飛びます
「この世界・・・」が公開されていた頃は「自分はこのアニメを観ることはないでしょう」と言いきっていましたが、テレビで放送されたのをちゃっかり観ています。こうの史代さんの記事もアニメ化ありきだったのですが、アニメ版を観ても然したる追記があるわけでもありませんでした。ビックリするくらい事前に聞かされていた絶賛情報の通りだったからです。
基本的に淡々と描くこうの史代さんの原作にそって、大げさな感動ポルノにはしないアニメでした。だけど自分は原作マンガのほうで挫折し投げ出しちゃったからあまり響きませんでした。「ジョジョ」の原作が嫌いな人が「アニメ版は面白いから・・・」て言われても観る気がしませんよね・・・
「この世界の片隅に」は反戦アニメ?とか歴史の証言?とか、こうの史代さんのほんわかアニメ?とか、様々な解釈ができるのでピント(作品と向き合える要素)が合いやすい作品でした。それに対して「マイマイ新子・・・」はいかにもピントが合わない作品だなって感想でした。
ほぼ90分間観ていながら作者(片渕須直監督のほう)が何を見せたいのか?というのがよくわかりませんでした。この作品は高樹のぶ子さんという80年代の美人女流作家?の「マイマイ新子」という作品が原作になります。1946年生まれで戦争を知らない子どもたちの一期生ですね。この原作は昭和30年の山口県防府市に住んでいた高樹のぶ子さんが9歳だったころの自伝的ストーリーです。
マガジンハウスの「クロワッサン」に連載されていたのでエッセイ風ショートストーリーだったのでしょう。「クロワッサン」はヤングミセスよりもうちょっとお姉さん向けのイケてる生活&オシャレ雑誌です。高樹のぶ子さん自身が57歳のころに執筆した作品なので、ほぼクロワッサン世代?なんでしょうね。連載当時のクロワッサン世代がギリ戦後生まれって呼ばれた世代でした。
つまり原作は昭和30年代+10年前後生まれの女性向けに書かれた女性誌の箸休め的な小説です。初めから9歳の子どもが読むことなんか想定していないんですよね。しかもまだ「an an」を読んでるお子様や「日経WOMAN」を読んでるキャリア系も読者として想定していません。昭和をテーマにした10年のズレは、平安時代と江戸時代くらいのズレになります。
「マイマイ新子・・・」が全く話題にならなかった原因は、このアニメ映画が誰向けなのか明確ではなかったからでしょう。主人公が9歳の新子(幼少時代の高樹のぶ子さん)なのですが、小学生が観て集中力が続くような脚本には思えませんでした。
アニメには「お子様向け」や「マニア向け」そして「オトナ向け」など、漠然とターゲットというものが存在します。「サザエさん」とか「ちびまる子ちゃん」などは、夕飯を待ってる間にぼーっと観る人向けアニメです。だから部活や遊びで夕飯を家族と食べなくなると、「サザエさん」を卒業していきます。


 この作品は「マイマイ新子」という高樹のぶ子さんの原作小説のタイトルと「千年の魔法」という片渕須直さんのオリジナルアニメのタイトルをくっつけて「マイマイ新子と千年の魔法」というタイトルになったようです。ただし高樹のぶ子さんの書いた原作は“千年”(平安時代)や“魔法”とかに言及した作品ではないようです。
アニメのストーリーは原作のエピソードをつなぎ合わせたのでしょう。女性誌のコラム的小説に壮大なストーリー展開があるわけもありません。それだと戦後の地方で暮らす小学生アルアル(作画に力を込めたちびまる子ちゃん)になっちゃいます。それだと本当に高樹のぶ子作品の初のアニメ化っていう感じになっちゃうので、ジブリで「魔女の宅急便」など魔法ファンタジーの旨みを覚えた片渕須直さんが「千年の魔法」っていうジブリっぽいアイコン・イメージをくっつけたのかな?
主人公の新子の脳内平安時代(千年パート)が片渕須直さんオリジナルの部分ですが、魔法といえる部分はなかったように思います。(気がつかなかっただけかも?) この脳内奈良時代というのが主人公が千年前と時空が繋がっているのか? それともちょっと幼い小学生の空想遊びなのかが、わかりずらいシナリオでした。
単純に高樹のぶ子さんの作品で歴史文化をやりたいのでしたら伊勢物語のアニメ化をすれば?って思います。自分の中の伊勢物語は木原敏江先生の「伊勢物語」ですね。
この作品で千年前のシーンが出てくる理由は時空の歪みとか陰陽的な超常現象ではなくて、アニメの舞台が山口県防府市だからです。この地は高樹のぶ子さんの出身地で、周防国衙(すおうこくが)があった歴史ポイントらしいです。一緒に観ていた同居人が歴史く詳しく、防府市の場所や歴史的な背景もピンと来たようですが、自分は地理も歴史も疎く神戸より西は広島しかイメージできません。
企画の順番としては高樹のぶ子さんの小説をアニメ化したかったのではなくて、地方のマイナー歴史ポイントを舞台にしたアニメを作りたくて原作が(ネタ)をさがしたんでしょう。そこから防府市出身の小説家(高樹のぶ子)の自伝的小説の「マイマイ新子」を見つけたんだと推理します。
要するに聖地巡礼有りきのアニメ企画ですね。それを裏付ける記述がエンドロールにありました。

 後援 山口県 / 防府市 / 山口県教育委員会
 協力 山口県フイルムコミッション
 支援 文化庁

協力のフイルムコミッションとは映画やアニメ等のロケハンや撮影許諾の調整をする組織です。近年の聖地巡礼ブームにあやかって、地方のPRのためにアニメなどの作品へ積極的に関わる傾向があるようです。
この作品の凄いところは教育委員会と文化庁が、ダブルでバックについていることです。普通に9歳の子どもがアニメを観るとして、学校の先生が「この作品を観なさい」っていうようなアニメを面白いと思うわけがありません。国の官庁が「この作品は文化的に素晴らしい」っていうお墨付きを出してる作品のドコが文化的なんだか・・・
さらに「マイマイ新子と千年の魔法」はいろいろ授賞しています。

 カナダ  オワタ国際アニメーションフェステバル 長編部門入賞
     
      モントリール ファンタジア映画祭 ベストアニメ賞

 ベルギー アニメーション映画祭 アニマ オトナ向け最優秀観客賞 / BETV 作品賞

 フランス シネ・ジュニア映画祭 観客賞

 文化庁メディア芸術祭アニメーション部門 優秀賞


フランスの賞は児童向け映画に与えられる子どもとその親たちが選ぶ観客賞です。ベルギーの賞はオトナ向けアニメに与えられる賞なので、海外ではオトナにも子どもにも評価されているようです。
そもそもこの作品が日本では全く観られなかった原因の一つが、配給した松竹が健全な子ども向けアニメとして宣伝したからのようです。本来ならアニメマニアに評価されるのを狙ったような凝った作りなんですが、片渕須直さんのネームがまだ浸透していないので、「教育委員会の後援」という肩書きで作品を選ぶような意識高い系のママに連れられた子どもしか観るチャンスがなかったようです。
文化庁の優秀賞を授賞理由は下記の通りです。

 第14回 文化庁メディア芸術祭アニメーション部門 優秀賞  贈賞理由

『 連綿と培われてきた児童向けアニメーションの正統な後継者である。だが、伝統的な手法を探りながらも片渕須直監督の導入した視点は実にユニークだ。55年前の山口県防府市の田園風景と千年前そこに存在した都、さらにその来歴があたかも同時に存在するがごとく描かれている。子どもにとって過去は消えてなくなるものではない。彼らの想像力は現在と過去を行きかうのだ。そして現在にも過去にも「奇跡」をもたらす。
こういった子どもたちと同じように、この作品のスタッフは入念な取材のもとに、実際に存在した風景と子どもたちを想像力で再生しようとしている。こうした営みこそがつくりものの空疎さを埋めるのだ。「童心」の本質を独特の豊かな表現力で描き抜いたことで、アニメーションの持つ児童向けの役割を再生させた作品である。』

メディア芸術祭のサイトの書き写しなのですが、偉い人が上からジャッジした偉そうな文章ですね。ちなみにこの第14回の大賞を取ったのは「四畳半神話大系」というテレビアニメでした。こっちの贈賞理由も読みましたがやっぱり偉そうな人が書いたような文章でした・・・
児童アニメの正統な後継者を児童が選んでいるわけではないという部分も気になりますが、この作品を観た時の印象が贈賞理由の中の『 55年前の田園風景と千年前に存在した都、その来歴(由緒って感じ?)があたかも同時に存在するがごとく描かれている 』で表現されています。
文化庁が児童向けアニメーションと言い張るのなら、対象にするべきは文化的なオトナではなくて9歳前後の児童です。児童の父兄や教育委員会が共感できる作品のことではありません。
先生に推薦されようと児童が面白いって思えないような作品を強要するのは迷惑ですよね。「この世界の・・・」のような「反戦や平和の意識を学ぶために観なさい」というのもウンザリですけどね。
行政府が良しとする児童向けアニメを作ること自体は何の問題もありません。問題なのは児童がこの作品を映画館で90分間観続けられるかどーかです。
自分は高畑さんの「かぐや姫の物語」を映画館で観ていたときに、子どもがグズってお母さんが途中退席したシーンに遭遇しました。高畑さんもジブリもこの作品を小さい子に観てもらう気ははなっからありません。アニメファンへ自身のキャリアの集大成を伝えたかっただけです。自分も高畑さんへの惜別のつもりで映画館へ行きました。せめて「竹取の物語」ってタイトルだったら「まんが日本昔話」のつもりで観に来る親子を事前に防げたんでしょうね。
「アニメだから子ども向けに作るのが正しい」というわけではありません。オトナを対象にする作品を否定するつもりもありません。しかし、子ども向けの振りをして子どもへ向き合わない作品は正しい作品とはいえません。
よく言われる「原作ファンのためのアニメ」だとしたら、この作品の場合は現在50~60歳代で元クロワッサン世代の女性です。その方々が川をせき止めてダムを造る小学男子のようなシーンに共感するとも思えません。「ちびまる子ちゃん」的な思い出あるあるでもなく、郷土史マニア向けでも時空SFファン向けでもありませんでした。
初めから片渕須直さんが対象にしていたのは小学生でも元クロワッサン読者でもなく、文化庁や教育委員会、地元観光協会、海外映画賞関係者というアカデミックな専門家たちだったんでしょう。
「いいや、私はこのアニメに共感した」とか「感動した」っていう人もいることはいます。自分の数少ない映画の世間の評判を計るサイト「映画.com」の評価では「マイマイ新子・・・」は非常に高い評価をされています。これはけなしようがないほどの無関心だからって感じです。逆に批判の嵐っていうのはその作品に関心が集まっている証拠です。
結果として「この監督は誰に褒められたくてアニメを作っているの?」っていう感想しかありませんでした。


 前記にて「魔女の宅急便」の元スタッフとともにジブリから独立したと書きましたが、企画当初は片渕須直さんが監督をする予定でした。脚本の差し替えやらスポンサー(クロネコの会社)がごねて宮崎駿さんが監督になったようです。
ラストの飛行船のアクションシーンは片淵直さんのアイデアでした。宮崎駿さんは自立する魔女の通過儀礼?が描きたかっただけなので却下。結局は鈴木敏夫さんの進言で映画のクライマックスとして飛行船のエピソードが採用されたようです。しかし今度は原作者の角野栄子さんを「物語の改変がヒドすぎる」と怒らせちゃいます。(その後宮崎駿さんと角野栄子さんは和解したとのことでした)
自分個人の感想は、飛行船パニックでほうき(デッキブラシ)乗りヒーローになるエンディングよりもトンボ君とシッポリとしたイチャイチャエンドのほうが良かったと思います。あのクライマックスも劇場アニメっぽくって成功だったんでしょうけど、あのシーンこそ角野栄子さんが「これは私の魔女じゃない」って思わせちゃったシーンです。
アニメや映画などの「面白くするために原作を変える(無視する)のは当然」という考えの人は、オリジナルを作るべきだと思います。作品の善し悪しではなくて原作者を怒らせたらクリエーターとして失格でしょう。
そもそも原作は「和風 赤毛のアン」を目指していたんですが、なんか前前前世な作品っぽくなっちゃってます。高樹のぶ子さんも「千年の魔法って・・・何?」って思ったでしょうね。
途中から出てきた巨匠に手柄を取られた片渕須直さんは、ジブリと袂を分かち作家性の高いアニメ監督になりました。「魔女の宅急便」を大ヒットしジブリ・ブランドを確固たるモノにしたのが、片渕須直さんの準備した原案なのか宮崎駿さんの巨匠オーラだったのかはわかりません。
その結果を推理する手がかりとして片渕須直さんは「アリーテ姫」という王女や魔法使いが出てくる世界観のアニメがありました。この作品は片渕須直さんが宮崎駿さんとどう距離を置いているんのかが見える作品なんでしょう。自分は「アリーテ姫」を観ていないから想像なんですけどね・・・


 作品の評価というのは作者の経歴や知名度に影響されることなく、見たまんまをどう感じたかが重要だと思います。しかし「マイマイ新子…」を観て「この世界の片隅に」を観た人と「この片」を観てから「マイマイ新子・・・」を観た人では「マイマイ新子・・・」の印象が違うモノになるでしょう。
大ヒット作の「この片」のバイアスが初見の「マイマイ新子・・・」に“良い作品バイアス”がかかるからです。自分はこの作品が片渕須直さんの作品と知らずに観たのが幸運でした。以前の日記では「自分はこのアニメを観ることはないだろう・・・」って書きましたが、日テレ系であっさり観ました。
「この世界の片隅に」は原作のほうもリタイアしてるので、原作忠実だと「そんなに面白いストーリーじゃないよなぁ(失礼)」って思っていました。別に戦争軽視とか特定の主義ということではなくて、今さら太平洋戦争?っていう印象はありました。戦争とか昭和20年頃の原風景や風俗は、背景や演出であってストーリーではありません。本当に戦争当時の日本へ興味があるのならアニメよりも記録映像のほうが伝える力が強いです。それをアニメ(作画や脚本)で見せる場合は、そのシーンが正確なのか想像なのかの検証が必要になります。
片渕須直さんは時代考証やロケハンの段階で手を抜かず、アニメの基本中の基本の作画の安定性(凄い作画の意味ではない)がしっかりしています。例えば細田守さんの作品だと、シーンによってはアレ?っていうカットもあります。
アニメファンの片渕須直監督のい評価で多い意見は「普通の人々の営みを描くのが上手い監督」というコメントです。営みは夜のコトではなく日常の何気ないシーンを丁寧に作品にすることです。これはおそらく「この世界の片隅に」での評価だと思われます。この作品には“夜の営み”もちょっとありましたね・・・
本来なら「○○神社がホンモノそっくり」とか「戦時中の食器が当時の資料のまんま」というようなディテールは、アニメおいてはそんなに重要なことではありません。渋谷の街並みのデータをCGてトレースする努力は認めますが、凄いか?といえば現在では予算と人材がそろえば誰にだってできることです。アニメをファンタジーと考えるのならリアル方向は絶対条件ではありません。しかし架空の街では山口県や防府市が金を出してくれないです。だから「ご当地アニメ」では風景のディテールがもっとも重要です。アニメという架空の映像を駆使するメディアは基本が作り話だから、ホンモノを混ぜると評価が上がったりします。
食事シーンや何気ない会話とか挨拶を丁寧に描写することを「普通の営みを描写するのが上手」というんでしょう。それは「マイマイ新子・・・」でも遺憾なく発揮されていて昭和30年代の地方の農村や繁華街を綿密に描いています。それって現代の9歳の子どもにとって興味がわくのかな?って疑問がありました。
自分は「マイマイ新子・・・」を観ながら時空の歪み(平安時代と昭和時代のクロス部分)が気になってエピソードが頭に入ってきませんでした。この作品はソコが重要なのではなく戦後の小学生の普通の暮らしぶりを普通に描く目的のアニメです。主人公の新子に千年前と現代の時空を繋げるチカラがあるのか? それとも主人公の新子の空想癖にひたすら付き合うストーリーなのか・・・?
「昭和30年代の普通の人々の営み」を描くのが目的だったんだろうけど、全然面白くなかったです。


 「この世界の・・・」は戦争をテーマにするのなら「そーいうモノだから」と割り切って観るやり方もあります。自分はアニメで反戦メッセージを学ぶつもりはないし、こうの史代さんの原作マンガ版もそんなに面白い印象がなかったから「ふ~ん・・・」って感じでした。
とくに批判すべき問題もなく、ましてや史実違いや原作無視のシーンがあるわけでもありません。原作をあまり知らないから正誤性は取れていませんけどね。主人公のキャラやエピソードがあんまり面白くなかったのは、原作由来の部分だと思います。それでも終戦へ向けてストーリーが進むから、観やすい作品だなって思いました。
ところが「マイマイ新子・・・」のほうはマイマイ新子パート(高樹のぶ子さん原作の部分)と千年の魔法パート(片渕須直さんのオリジナルシナリオの部分)が、どこへ向かっているのかさっぱり判らない作品でした。
「マイマイ新子・・・」は、かなり早い段階で転校生の女の子の豪華な色鉛筆を知的障害っぽい男の子が勝手に借りてぐちゃぐちゃにしちゃうシーンがあります。障害者差別とか、昔の子どもには差別なんて概念がないとか「こーいうシーンが描ける俺ってスゲぇだろ・・・」なのか知りませんが、この段階でアニメを消すかどうか審議になりました。自分よりも同居人のほうが怒っちゃったから・・・
想像ですがこのシーンは原作にあったんだと思います。高樹のぶ子さんの体験としてそいうい同級生の男子がいたからできたエピソードでしょう。これは2003年頃に高樹のぶ子さんと同世代の読者が共有する記憶の中にありがちだったエピソードだったんでしょう。それを現在のアニメで切り取るのは別の印象を与えてしまいます。男子が悪意で金持ちの子へ意地悪してるのではなくて、知的障害だからしょうがないというほうの絶望感が強かったです。
「昭和の時代は知恵おくれって普通の子どもと一緒に教室で勉強してた」っということを「戦時中は防空壕に入って・・・」と同じ昭和アルアルで語られるのは違う気がします。現在の知的障害児童がどういう待遇なのかは勉強不足なのでわかりません。しかしストーリーの中でこの問題に向き合うこともなく、“昔は変なヤツっていたよな”というアルアルとして描くことがリアルなのかな・・・?
それ以降も主人公や登場人物がなんか好きになれないまま、時空の歪みは?って思っているウチに90分が終わっちゃいました。
面白いかつまんないは極めて主観ですから「私は感動しました」とか「新子はオレの嫁」っていう人がいるのは当然です。当たり前だけど自治体や官庁の役人は協賛するくらい感動したんだしね。


「面白い」を客観的に説明してみましょう。同じように昭和30年代の地方を舞台にした文化庁優秀映画製作奨励金交付作品(文化庁お墨付き)のアニメ映画に「となりのトトロ」があります。そもそも片渕須直さんが「魔女の宅急便」の監督候補になったのは、宮崎駿さんが「トトロ」を作っていて手が回らなかったからです。したがって「マイマイ新子・・・」と比較対象が「トトロ」なのは望むところでしょう。
「となりのトトロ」は昭和30年代の埼玉郊外(武蔵野の森)の12歳と4歳の姉妹が謎の生命体と接触するストーリーです。そもそもサツキは4年生という設定だったのですが、あまりにしっかりとしたお姉さんキャラなので6年生に変更されました。「トトロのアノシーンが・・・」っていえば、いろんなシーンが思い出します。「まっくろくろすけ」「メイの授業参観」「バス停の雨宿り」「ねこバス」など・・・ 誰もが思い出すシーンがありますよね。この「記憶に定着しているシーン」がその作品の面白かった部分です。(笑えるシーンというわけではありません)
これらのヒットシーンがどれだけあるかがその作品の決定力といえます。サッカーではフォワードがゴールを決めて得点を競うゲームですが、Jリーグでもフォワードが90分で撃てるシュートはせいぜい10回くらいです。チームで合計でも1~2回くらいしかチャンスがない試合もざらにあります。シュートが決まる決まらない以前にシュートシーンが無ければ観ていても盛り上がらないです。
「マイマイ新子・・・」では子どもたちが用水路?をせき止めて水たまりを作り金魚を飼うシーンがシュートチャンスだったようです。最後の田舎の繁華街の風俗店へ殴り込みをかけるシーンも枠を外しちゃった感じですね・・・
結局ノーゴールだった試合でもサポーターにとっては無意味な試合とは限りません。サッカーではゲームの質は最低でも価値のある引き分け試合もあります。でも、シュートシーンを見せられないアニメ監督は二流だと思います。観客を楽しませるということは創作者として最低限の基準です。


 「マイマイ新子と千年の魔法」を観ながら、わんぱく少女アニメが作りたいんだったら高樹のぶ子さんの原作なんか使わないで深谷かほるさんの「エデンの東北」なんかをアニメ化すれば面白いのにって思っちゃいました。
片渕須直さんは「わんぱく」とか「はっちゃけ」とかいったマンガ的アイデが得意ではないような気がします。自分は観ていないのですが観た人たちのレビューによると「アリーテ姫」のほうもそんなに楽しい作品ではないようです。作品のディテールの対するこだわりはもの凄いのですが、アニメを観ている人が楽しめるようなセリフ廻しやアクションの面白さは乏しい印象でした。そーいうアニメ的な盛り上げ方よりも、教育委員会の評価基準のほうを向いてる感じです。片渕須直さんのアニメ監督としての実力は「この世界の・・・」でも証明されています。
片淵素直さんが考える正しい作品の到達点がアニメファンの求める到達点とズレているんじゃないのかな? 自分の考える正しいアニメの到達点もアニメファンのそれとズレているんですけどね・・・


「ほぉ」って思ったら押してね

今年の鬼滅は今年の内に - 2020.12.16 Wed

「鬼滅の刃」はどうして流行ったのか?をちょっとだけ考えてみる・・・


「鬼滅の刃」のマンガ版も読まず、劇場公開の「無限列車編」も観ていないのに、またまた「鬼滅の刃」についての記事です。知っている知識はテレビアニメ蛮の22話~26話の全5話分と、テレビやラジオなどのマスコミの情報だけです。「知ったかぶりで語るなよ」という指摘もあるでしょうが、まさに知ったかぶりで語っているだけです。例えば「スターウォーズ」なんかは熱狂的なファンだけでなくて、アンチもたくさんいます。(自分もアンチです)しかし「鬼滅の刃」の特徴はアンチファンや否定するコメントがほぼ無いということです。
自分レベルのひねくれたアニメやマンガ好きにはネガティブな意見の人もいるんでしょうが、マスコミ側や評論家的なコメンティーターやタレント、著名人の人がメディア媒体で「俺はつまんないと思うよ」くらいの意見すら見かけません。自分自身が観て面白くなかったんだったら、な人の感想は置いといて「つまらない」って言ってもいいんじゃないかな?って思います。だって日本中が面白いって声を揃えるには不気味しゃないですか・・・?
同じ時期に公開されている「STAND BY MEドラ泣き2」を観たメディア関係者の意見は、自分調べでは100%駄作認定です。国民的人気の「ドラえもん」の新作が誰も褒めていないのはおかしいと思っていたら、俳優のナガハマ シンという方がYouTubeで「大号泣」と言っていました。彼は11月20日の段階で最速レビューを自負していますが、明らかにフライングだったという感じでしたね。
1週間待てば著名・無名の映画ファンが酷評してることに気がついたことでしょう。去年公開された「CG映画版ドラクエ何たら」の監督なので「何度騙されてるんだよ!」っていう感じです。監督が山崎貴さんなんだから判りそうなモンだからね・・・ (ナガハマ シンって誰?)
誰でもいいからひとりくらい「鬼滅の刃」を上手いこと批評している人がいないのかな?って思っていたら、アニメ監督の押井守氏さんが「鬼滅の刃」の劇場版に対してコメントがネットニュースになっていました。押井さんはアニメーターの中では数少ない作家性で勝負しています。こーいうブームになっている時にこそ嫌われ者キャラとして逆張りコメントが出せるタイプって感じですよね。
自分としては「うる星やつら」や「パトレイバー」が高橋留美子先生やゆうきまさみさんのマンガ版のほうが正しい(面白い)ということに気づいちゃったので、押井信者とは一線を引いています。なにより押井さんのテロリスト崇拝が性に合わないんですよね。
そんな押井さんなんですが「100万人は作品の力、それ以上は社会現象」と説明しています。これはジブリの鈴木敏夫さんの言葉とのこと。当然ながら押井さんは「鬼滅の刃」の映画も原作も未見ということを強調しています。ヒットした原因はコントロール不能な「バズる」状態になったからで、バズるのは現象であって説明できないから「バズる」のだそうです。「バズる」ための臨界点はどこなのか?は謎であり、納得できる答えは出ていないのだそうです。
よくわかんない部分もあるけど、自分と押井さんの意見が一致したのは初めてかもしれません。「この先も映画の続編が作られるだろうが、1作目ほどヒットするかは怪しい」とのことです。押井さんなら「幼稚とか、価値がない」くらいの憎まれ口を叩くかときたいしたんですが、さすがの押井さんでも鬼滅ブーム(社会現象)には抗えないんですね・・・


 「何故、鬼滅ブームになったのか?」を作品が面白いからで片付けるのは簡単ですが、それでは批評とは言えないのでウケる要因を考えてみましょう。この作品は「子どもにウケた作品がオトナにも伝染していったのか?」それとも「先にオトナが面白さに気づいて話題になったことで子どもに普及したのか?」の判断が難しいです。自分がこの作品を認識したときにはすでにバズっていたのでどっちが火をつけたのか判りません。小学生の知り合いがいないので・・・
先程、引き合いに出した山崎貴版の「映画 ドラえもん」の場合は、子どものドラファンを無視してでも「CGアーティストの俺様が作ったドラえもんを観てくれ」っていう勘違いや的外れな興行が鼻につく感じです。オトナになったドラえもんキャラのストーリーは子どもの求める展開ではなく、オトナ太刀の自己満足なだけの発想です。恐竜や海底などは子どものニーズを考えれるんだろうなぁって思うから、子どもではない自分はスルーしてきました。のび太がしずかちゃんと婚前交渉でラブホに行き、先に風呂に入っているしづかちゃんに風呂場へ押し入り「イヤ~ン、のび太さんのエッチ」って言われたり「いざ本番っていう時にのび太がビビって勃たなくなるエピソード」の何処が子ども向け映画といえるのか?(そんなシーンはないんですけど・・・)
こっちのほうの失敗はプロデューサーや配給会社が「山崎貴で良いのか?」を真剣に考えなかったことです。能力が無い人が悪いんじゃなくて、能力のない監督を起用した人が責任を取るべきです。山崎貴さんは子どものニーズが理解できていないか、もしくは子ども向け作品を根底でバカにしてるんだと思います。
子どもを切ってオトナ向けに特化したとしても、100万人の大台は難しいです。「アンパンマン」や「機関車トーマス」のように子どもに特化する作戦は、子どもの人口比の分までMAX狙えます。しかしバズるにはマスメディアやネットの評価が重要なので100万オーバーを狙いにくいです。
「鬼滅の刃」が興行成績で戦っている上位の映画は1位(現段階で)の「千と千尋・・・」から10位の「ハリーポッター」まで名作映画というよりも大流行作品っていう感じの作品が多いです。ジブリ作品やディズニー作品、細田作品、「タイタニック」や「踊るフジテレビ」などなど・・・
映画興行ランキングのベスト50位までを見ていると、作品のクオリティーや評価の高さでは100万人の壁を越えるのは内容よりもミーハーな社会現象をどれだけ盛り上げられるのか?という傾向が見えてきます。制作費よりも宣伝費が重要というのも、往年の角川映画の手法のまんまじゃんっていう感じです。上位に同じ企画の作品が入っているのもシリーズや監督がブランド化する必要があるんでしょう。90年代の「タイタニック」がレオ様人気だけで今だに歴代3位なのはスゴいですね・・・


 作品がバズる要因は「メインターゲット世代に大ヒット」は最低条件で、「オトナや小さい子にも理解(共感)できる」と「メディアが大騒ぎするメリットがある」が必要です。今回の「考察は名作について」ではなくて「どういう作品がバズる作品なのか?」なので、作品のメッセージや社会的意義はまったく考慮しません。子どもへの影響や現代社会を映し出すという評価ですら、作品がバズることと全く関係ありません。
「鬼滅の刃」の掲載誌の「少年ジャンプ」のベース・コンセプトは『友情・努力・勝利』です。サブカルの評論家たちによると「鬼滅の刃」はジャンプの王道の三原則がウケている要因だと語っていました。そんなのが最近のクールな小学生にウケるわけないじゃんって思います。
「ボクたちは友情や努力する作品で勝利の瞬間に共感するんだ」って小学生がコメントしているんだったら正しい分析といえるのでしょう。オトナが小学生に「鬼滅の刃は何がスゴいの?」って聞いたら「友情」とか「努力」とか答えるのは、オトナがそーいう答えを聞きたがっていることを子どもたちはちゃんと把握してるからです。
じゃあ、何が子どもの心に刺さったのかといえば、まずは「キャラクターの名前の難しさ」ですね。キャラの名前でコレを読むのは無理だろっていう難解漢字(難解読み漢字)を上げてみましょう。
 
・竈門炭治郎  主人公なので露出が多い2020年で一番有名な名前
・竈門禰豆子  この人(鬼?)もネズコという音で覚えた。 変換のコツは「ネギ」と入力
・嘴平伊之助  猪の人ですが猪という漢字ではなく「くちばしがたいら」と入力
・不死川玄弥  「ふしかわ」だけど「シナズガワ」と読むトリッキーです
・栗花落カナヲ 変換は簡単ですがどうしてこう読むのかはさっぱり判りません
・伊黒小芭内  逆に素直に読むことで正解するパターン 
  
(1億冊以上売れている国民的な作品なので、あえて正解は書きません)

小学生がこんな難しい漢字を読めるのか?というか、むしろ常用漢字ですらありません。オトナはネット情報やテレビの情報で「誰が誰やら・・・」って感じなんでしょうが、マンガ版(ジャンプコミックス)では、全てのセリフの漢字にはフリガナが振ってあります。だから読めて当たり前なんですが子どもにとっても難解漢字のオンパレードだという認識があり、「竈門っていう字、お母さんは読めないんだ・・・」という優越感を満足させる要素になります。
オトナは読めない以前に「読めた名前を覚えていられない」という問題もあります。これも子どもの自尊心を満たすことになります。あいつらはポケモンのモンスターを暗唱できる位の記憶力です。「そんなモノを覚えるくらいだったら、九九を覚えろ!」って心の声を押し隠したお母さんも多かったと思います。それくらいヤツらは無駄な情報を覚えるのが得意なんですよね・・・
難解漢字をアニメで使うメリットは海外ウケがいいのかもしれません。ゴチャゴチャした漢字は欧米ではクールに感じるので、作中の漢字もあえて旧字体にこだわって和テイスト風です。


 次に子どもにウケた要素はストーリーの明白化です。多くの方が言っているようにヤヤコシイ設定や難解漢字のキャラのわりに、観ていればわかるストーリーようです。観ていて判りにくい作品というのは、碇司令がシンジ君に何をさせたいのか?とか月に刺さっている槍は何なのか?などです。
「鬼滅の刃」の場合は「鬼はこういうヤツ」「鬼殺隊はこういうヤツ」「目的は鬼化した妹を人間に戻す」「ラスボスは無惨」など、ストーリーは色々と明確です。ネットニュースでも「ラストでまさかのドンデン返しが・・・」というコメントがないようなので、鬼ヶ島で決着するんでしょう。
「使徒って?」とか「リリスが・・・」っていうデタラメな用語で引っ張れば、アニメファンを自称する人たちの支持は得られますが、それではジブリを越せないのは歴史が証明しています。「エヴァンゲリオン」や「まどか☆マギカ」などがオタクカルチャーに評価されればされるほど、一般の子どもたちや普通のオトナからは敬遠されてしまいます。
普通に演出を考える人なら「一捻り入れる」とか「まさかの展開へ」という欲求に勝てません。そこは「少年ジャンプ」の編集部のヒット作に対する自信の表れだと思います。彼らは小学生はどれくらいの引きで釣れるのかを熟知しています。同規模にバズった「進撃の巨人」のほうは講談社がマニアック路線から抜けられなかったので「謎オチ」に終始しちゃっています。それは明快なストーリーとはいえず、最近は尻すぼみな印象です。もうじきクライマックスなのにね・・・
ストーリーは単純明快ですが、覚えなきゃいけないアイテムは尋常じゃないほど多いです。鬼殺チームや鬼チームのキャラの多さは「ONE PIECE」を彷彿させますし、サポートメンバーや必殺技の名称も大量に覚えなきゃいけないです。しかしコレなの名前はコントローラーのLボタンを押しながら一覧を呼び出し、○ボタンで選択できるような情報量です。
丹治朗の修行シーンも番場蛮が大回転魔球を習得する時のような創意工夫がありません。スライムを倒しているうちに、経験値が上がってキラーマシーンも倒せるようになるっていう感じでした。なんか主人公が必殺技を考えるんじゃなくて、言われたカリキュラムをコツコツこなすよい子っていう印象です。そーいう受動なキャラがヒーローマンガの主人公でいいのかな?って思いますが、経験値が上がれば強くなるというのに疑いのないRPGゲーム世代には違和感がないんでしょう。


 親御さんの中には「残虐シーンを子どもに観せていいのか?」っていう不安があるそうです。「鬼滅の刃」はキャラ絵の可愛らしさに対して鬼との戦いはかなりロい描写が気になります。昔だったら教育ママゴン(死語)が「すぐに放送を中止しろ」って大騒ぎする案件なんでしょう。
残酷な描写があまり問題視されない要因として「残酷なシーンを描写できるアニメは子ども騙しではない作品」という思い込みがあるような気がします。これは永年思っていることなんですが「暴力を隠す=子ども騙し」「残虐を描写する=オトナ向け(ホンモノ)の演出」という風潮はおかしいと思っていました。残酷なシーンを描かなくても意味が伝わるのが本当のオトナ向けの演出です。
シモのハナシですが誰でも毎日うんこをしますよね。これで幼稚な演出とオトナ向けの演出の違いを説明します。「人間は誰でもうんこするんだよ」って意味があるようなセリフで「俺は肛門のヒダまで作画する」というのはリアル指向でしょうか? トイレのドア越しに水を流す音だけで排泄を理解させるのが正しいオトナの配慮ですよね。
「時代劇(チャンバラ)で、刀で斬っても血が出ないのは“ごまかし”」ということですが、殺陣の様式美とリアリティーの兼ね合いだと思います。うんこは極端な例ですが、女性が飲み過ぎたシーンでゲロを吐くシーンをどう描くかだとその監督の様式美とリアルの見識が問われます。客が観たくないシーンと観たいシーンの比率をどう解釈するか?ですね。
有名女優が嘔吐するシーンを観たい人と、そんなシーンは観たくない人はどちらの意見もありです。昭和の名言で「芸術のためなら脱ぎます」というのがありますが、今よりもオッパイに価値があった時代に落ち目な女優さんが一発逆転を狙ったセリフです。「芸術作品にセックスシーンがあってもポルノじゃないわよ」って自分に言い聞かせているセリフですが、観客にとってはオッパイの芸術性なんかどーでもいいハナシですよね。
「首を斬り落とすシーンでオトナ向け演出」というのは、宮崎駿さんも過去にやっていました。「もののけ姫」の冒頭のチャンバラシーンで主人公がもモブの兵隊の首をばっさりするシーンを、予告編でもアピールしていました。これは宮崎駿さんの「トトロとは違うんだよ、トトロとは・・・」というメッセージであって、ちょっと大人げない(幼稚)な演出だなぁって思っちゃいました。
残虐なシーンは観たい人と観たくない人の比率であって、その作品の視聴者はどっちが多いのかを見極められれば有効な要素になります。観客の希望の合えば、残虐でも嘔吐でもうんこでもOKなんですよね。「寅さん」でヒロインのヒモの男がヤクザにドスで滅多刺しにされるシーンは、お正月に初笑いのために劇場に来たお客さんを絶望に追い込んじゃいます。逆に血も叫び声もないジェイソンってなんじゃそりゃ?って感じです。
「鬼滅の刃」の場合は子ども向け作品で残虐シーンを観せるかどうかの選択で、集英社やアニメ会社は「子どもへ残虐シーンを観せるのはアリ」と判断しました。ここで「子どもは嫌がるだろうけど本気の作品作りに残虐シーンは必要」という昭和の女優のような発想だったらここまでヒットする作品にはならなかったと思います。


 子どもにとって「鬼滅の刃」の何処がそれまでにアニメと違ったのか?といえば、子どもが求めていた残虐シーンがあったからです。男子小学生(中学生も含む)が見たいモノの1位は疑う余地なくオッパイで決まりでしょう。友情も努力も勝利もすべてはヒロインのオッパイで台無しになります。しかし女子にはオッパイは無意味なのでオッパイ押し、パンチラ押しでは小学生の半分にしかヒットしません。実は女子のほうが男子よりも性的指向回路は発達しているんですが、それは作画でどうこうできる部分ではありません。そっちのエロ要素を上げると男子はぽか~んになっちゃいます。
そもそもメディアのエロ攻撃に引っかかっちゃうのは第二次性徴(懐かしい響き・・・)以降のことであって、小学生男子の持つエロスペックなんか「見ちゃダメ」ってオトナがいうから見たい位のスペシャル感でしかありません。この原理を利用したのが小学生に絶大な人気の「うんこ」です。何でうんこがスペシャルだったのか?は、小学生に戻れないオトナたちにはさっぱり理解できません。
子どもが感心を持つ順番は最初が主人公(ヒーローやお姫様)なんですが、やがて死の世界に取り付かれます。その後、異性に目覚めたりエロに目覚めたりして、死への憧れなんか忘れちゃうのが一般的な流れです。
死への興味は子どもが虫を無意味に殺したりすることとは関係ありません。あれはどちらかといえば知らないモノへの興味なので、犬は死んだら可哀相だけど虫は可哀相だという判断が付いていないだけです。虫も犬も同一線上の生き物なんだと判ればむやみな殺生をしなくなります。
危険なのは死への興味がエロへの興味に移行しない子どもの場合です。危ないのは死への興味は哲学的っぽさがあって、エロへの興味は俗物っぽさがあるということです。ちゃんとエロへ成長できない子どもは、死へ取り付かれていってしまいます。エロは対称がアイドルでも同級生や先輩、後輩、先生でもAV女優やエロサイトであったとしても関心が他者に向かっています。
逆に死への関心は自身の内側にこもっていくので、思考がアンダーグランドに行きがちです。生きていく上で必要なのは性への関心のほうで、死への関心は未熟な思考ということになります。オッパイへの憧れは健全な成長の証だけど、死への興味は死への執着や歪んだ思考になりがちです。親が心配するべきは、エロ息子よりもエロに走らない息子のほうでしょう。


 従来のジャンプ編集部だったらうんこかオッパイで子どもの機嫌を取るていう印象でしたが、「鬼滅の刃」では露骨に残虐シーンをわざと全面に押しています。背景に「進撃の巨人」が世の中に受け入れられたことが大きかったと思います。
子どもにとって残虐に殺されるシーン(鬼でも人でも)は禁忌であり、死について語ることすら親たち(オトナ)はいい顔しません。親としても我が子が暴力は当然として残虐なシーンを観たがるのはビビりますよね。「加虐的な性格なのか?」とか「心の闇があるのか?」って考えると不安になるのはもっともだと思います。
しかし実際の子ども時代は単純に死という非日常に興味があるだけで、性という非日常?の前に誰もが通過儀礼として死を意識します。そのシーンが首をはねるとか刀で斬り刻まれるなどのシーンだと興奮がマックスです。エロエロでいえば、ただパンツが見えるとかオッパイがポロリするシーンだけでもラッキー・エッチなんですが、本番シーンや更に集団暴行や自慰などが観れたら大興奮です。
そーいうシンがあるアニメも深夜アニメだったら無くはありません。しかしそれらの作品を親に目を気にしながら観るのは至難のワザだから、バズるほどのヒットは難しいです。
業界的にバズったほうの「まどか☆マギカ」は死に向き合った作品だったのかもしれませんが、ロリコンアニメという親がもっとも嫌がるジャンルなので、ヒットのアニメマニア止まりっていう印象でした。重要なのは「まどか☆マギカ」がどーいうテーマの作品かではなくて、オトナがどういう作品と認識するかです。観るのは子どもだからオトナのイメージは関係なさそうですが、子どもの中でもオタク嫌い子にはマニアックな作品は敬遠されたりします。
何故か本来は15禁でも不思議でない(むしろ18禁?)な残虐アニメが、「鬼滅の刃」に限って幼稚園児でも観られるようになりました。人が残虐に殺されるシーンは誰だって観たいじゃないですか。そのために殺害以外の部分を徹底的に「良いアニメ」に作り上げました。作画もシナリオもテーマもくすぐりのギャグも観少女キャラも格好いいお兄さんキャラも・・・ 老若男女すべての人に満足できる作品を用意して「鬼のシーンで怖いシーンはあるけどそこを我慢してみれば凄く良い作品だから」という免罪符を手に入れました。
我慢するどころか子どもにとっては願ったりのことです。普通だったら怒られるようなマンガを親世代も夢中になっているんだから・・・ この構図は「クレヨンしんちゃん」の劇場版アニメでも観られる方法です。しんのすけを観たがる子どもと子どもアニメに付き合わされる親の両方を楽しませる作戦ですね。


 「鬼滅の刃」のアニメに関するニュースやバラエティーでの取り上げ方で今までとは違う部分に気がついたでしょうか? 例えば「ONE PIECE」や「ドラえもん」の新作アニメ映画などは、日本テレビしか観ていないとそんな映画公開してることすら伝えません。逆に「名探偵コナン」の場合はTBSでは存在すらしていない風なんでしょう。日テレ系以外のテレビ番組で「名探偵コナン」を話題にすることも皆無なんでしょう。フジテレビ以外の番組で「事件は会議室で起きているんじゃない・・・」ってギャグは御法度でしょう。
これは最近のアニメや映画が放送局と紐付きな関係にあるからです。これは“製作委員会方式”という製作システムのためです。クレジットの表記は様々だけど○○製作委員会って書いてあるのや○○チームっていう感じの表記はザンブ製作委員会方式です。
製作委員会とは作品を製作する前にあらかじめ出資会社を募り、公開時の利益の配当と損益のリスクの分散を目的にしたシステムです。現在公開中の京アニアニメ映画「ヴァイオレット・エヴァーガーデン」では製作がヴァイオレト・エヴァーガーデン製作委員会とクレジットされています。この製作委員会は「ヴァイオレット・・・」というアニメを作りたくて集まった有志のメンバーのことではありません。この作品の売れ上げを分配する出資会社ということです。
謎の声優に人気俳優の抜擢や誰コイツ?っていう主題歌の歌手などは、それぞれ出資会社の紐が付いていると想像できます。どんなに世間で「コナン」がウケていようが日テレの商品を他局で宣伝する意味はありません。出資のイメージだと株式会社が社長や社員のものではなくて出資者の利益のためのもとという感じで、アニメが監督や原作者、アニメファンのものではなく、出資やの配当のためのものです。
「鬼滅の刃」はアニプレックス(ソニー系配給会社)集英社(原作の出版社)ユーフォーテーブル(アニメ製作会社)の3社の持ち出しで製作された作品です。分配比は知りませんが、映画館やテレビ局、謎の大手代理店、謎の大手缶コーヒーメーカーなどが入った製作委員会とは違う形態です。製作に携わった会社で利益を分配するシステムのようです。
自分が想像するに今回のテーマの「鬼滅は何故バズったのか?」の答えは、この製作委員会方式をとらなかったことが勝因だったんだと思います。極端なハナシ、映画会社が製作に入っていないから東宝以外の映画館でも上映できるから、日本中の映画館が鬼滅だらけという珍現象になりました。
テレビやラジオ、新聞や雑誌(紙媒体)などでも利害がないので好き勝手に報道や話題として取り上げてくれます。これは宣伝費0円で広告を打ってるようなモンです。現代社会ではステマが疑われると大バッシング祭になりますが、自然発生っぽい場合は核分裂のように無限に広がっていきます。
香水の歌や謎のリレー動画のように「作為的な企業の何か」ではなくて、「自分が良いと判断した者が広がっていくモノに対して拡散させた当事者意識」は自分がバズらせたという満足感(謎の自己肯定感)が得られます。香水の歌も「鬼滅の刃」も企業媒体の誰かの利益のためなんですけどね・・・
つまり、製作委員会方式でないことが最大の成功要因です。身内だけが儲かる私的なコラボではなく「市松模様」とか「壱ノ型って言いたいだけ」くらいのレベルのコラボも容認してました。鬼滅って言えばウケるんなら鬼滅というアイコンを自由に使って構わないくらいの印象です。結果としてNHKも含めたすべての放送局が勝手に鬼滅キャンペーンをやっていたんでしょうね。


 もう一つマンガファンからすれば、集英社が原作者の吾峠呼世晴さんを隠したことが興味深いことでした。隠したという表現が正しいのか真相はわかりませんが「田舎に帰った」とか「もう引退した」とか、一線から離れたような報道を見かけました。
そもそも吾峠呼世晴さんに関しては画力を疑問視する声が聞こえていました。自分はネットで吾峠呼世晴さんのデビュー作(投稿作?)を見ましたが、お世辞が言えるほどの内容ではなかったです。ジャンプの編集部には「進撃の巨人」の作者の諫山創さんを取り逃がした苦い過去があります。それでだとは思えませんが、編集部の総力でバックアップしたのが「鬼滅の刃」だったんじゃないのかな?
過去にもジャンプには「ドラゴンボール」や「リングにかけろ」など、始まりと全然違うストーリーになった作品は多いです。興味深いのは「鬼滅の刃」の評価されるポイントがすべてジャンプ的な少年マンガの特徴やマーケティングと符合することです。
吾峠呼世晴さんが考えたストーリーというよりも、みんなで会議して練られたすストーリーっていう印象が強いです。マンガのストーリーは作者が独りよがりで考えるのだから偏りや固執する部分が必ずあって、それが作品の味(個性)になったり欠点になったりします。アニメの場合は製作に大人数が携わるので、企画会議からみんなの意見を出し合って作品の方向性を決めます。
ジャンプ等マンガ編集部にも当然ですが編集会議があります。マンガ家が考えた作品を会議で議論するのと、会議で議論した作品をマンガ家に描かせるのは微妙に意味が違います。吾峠呼世晴さんがそーいう色々を上手にマスコミ対応できないタイプの人ならば、編集会議で吾峠呼世晴さんをマスコミから隠す(引退させる)決定があったのかもしれません。(100%憶測ですが・・・)
謎のベストセラー作家で似たタイプだったのが「鋼の錬金術師」の作者の荒川弘さんですが、荒川弘さん自身の正体は不明でも作品のクオリティーに対する知名度は抜群でした。これだけの社会現象になった作品を考えた張本人であるはずの原作者が、ここまでノーコメントというのは不自然というか作為的なチカラが影響しているって勘ぐっちゃいます。今までのエンタメ界での通例では作品論とかテーマとか何らかの政策に関する作者への取材があって然るべきです。アノ諫山創さんでさえNHKの密着取材を受けていました。
自分としては画期的なアニメ公開前に最終回が決定していたことです。全23巻というジャンプにしては比較的あっさりと完結したことと、アニメ化によって原作マンガが再評価されたのも考慮すると、かなり早い段階からアニメ化チームのユーフォーテーブルのスタッフとジャンプ編集部で綿密なストーリーのコンセンサスができていたと想像できます。アニメ化の構想がマンガがヒットするタイミングより前から準備されていたとしたら、そこにうだつが上がらなかった新人マンガ家のアイデアなんか口の挟む余地などありません。
そうなると原作者の吾峠呼世晴さんのクレジットだけを残して、マンガ家としての吾峠呼世晴さんは故郷に帰ってもらうことまでがプロジェクトとして決定していたのか?って陰謀論も想像できます。
むしろ「吾峠呼世晴さんの次回作にご期待下さい」っていうほうがいろんな人が不幸になるような気がします。
集英社のマンガ誌の中でも少女マンガのほうは、ベストセラーを出した作家の次回作は同レベル以上の新作をだすのが当たり前っていうイメージです。しかし少年マンガは2本目を当てるのが至難のワザっていう印象ですよね。作家に才能があったからヒットしたのでは?って思うんですが・・・


 「鬼滅の刃」は完結している作品なのでアニメの「無限列車編」の続きをどういう形式で公開するかの作戦は三社で協議されていると思います。集英社としても柳の下には「呪術廻戦」というダークヒーローものや「約束のネバーランド」の後半戦のアニメが控えています。
何だか共通しているのは残虐さや悪意がテーマの作品ばっかりなんですよね。「ごくせん」や「ちはやふる」のような作品は少年マンガではできないのかな?っていうのが感想ですね。


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封建と専制君主 - 2020.12.12 Sat

アニメ版「鬼滅の刃」の22話と26話を比べて思ったことについてです。


 鬼滅の単行本の最終刊が発売され、新聞に集英社が得意の全面広告が出ていました。ウチは読売新聞なので炭治郎バージョンもありました。せっかくの全面広告なんだから「鬼殺隊報」の新作描き起こしでも載せればよかったのにね。
発行部数が累計で1億2千万部以上とのこと。今回の鬼滅ブームではネットのマンガ読み放題サイトでダウンロードするよりも、紙の本を購入する方が多い印象があります。(検証していませんが・・・)
「本屋さんがてんてこ舞い」という報道を聞くと「出版界よかったね」って心から思います。売れない名著はベストセラーのおかげで出版できるシステムなんだから・・・


 前回の記事では「鬼滅の刃」のテレビ版の第22話~第26話のうち、23~25話の部分だけについて書きました。この3話は治療回と修行回なのでブルボン小林さんの言うところの「鬼滅の刃の魅力は修行や治療シーンを丁寧に描く」という部分だったと思います。治療といっても「ドラゴンボールの仙頭のようなアイテム」ではなくて、療養所で治療に専念するという“リアリティー?”が見所だそうです。修行パートの表現も“指示されたトレーニングを信じて続けていれば習得できる”という感じでしたね。
第22話は「お白州回」で第26話は「リストラ回」でしたが、この2回は「鬼滅の刃」のベースになる鬼殺隊と鬼チームのカラーの違いや、本質的なテーマが浮かび上がる重要な回でした。
ブルボン小林さんの解説によると鬼殺隊=ホワイト企業、鬼チーム=ブラック企業というカラー分けされていました。このテレビ版の録画を観た段階では自分の鬼滅情報の8割以上がブルボン小林さんの発信でした。漠然と鬼殺隊=正義、鬼=悪という図式だと思っていましたが、22話の鬼殺隊がお白州で勢揃いのシーンは、初見ながら「おやおや・・・」っていう感じでした。
第22話の展開は『主人公らが鬼との戦いで手負いになったが、それよりも炭治朗の妹が鬼化している事が鬼殺隊にバレてしまい追求されているシーン』でした。本当に初見だったので丹治朗が背負っている箱(背負子?)の中に妹が入ってるのも初めて観ました。鬼だから直射日光がダメなので箱に入れて歩くという設定なんですね。
“イイモン・チーム”のハズの鬼殺隊ですが、いきなり不穏な空気です。どうやら21話あたりで丹治朗の背負子の中に入っていた妹が鬼だという事がバレて、そのことが問題になっているようです。
鬼殺隊のひとり(視聴時、誰なのかは識別できませんでした)が罪人状態で押さえつけれれている丹治朗の目の前で、こともあろうに箱ごと太刀で突き刺します。「鬼殺隊だから鬼は切り捨てる」というストーリーだから、第1話から観てきた人には違和感のないシーンでしょう。しかし初見で観た自分は「なんで無抵抗の女の子を太刀で刺せるんだろう?」っていう感想でした。
妹が鬼化しているというのは情報で知っていましたが、鬼が首を断たなければ死なないという情報は入っていませんでした。(後に聞いた情報では日輪刀じゃなければダメらしいとのこと)


 「鬼滅の刃」久々の国民的な大ヒットマンガで、コロナ禍による景気低迷の中で数少ないヒット商品なんですが、唯一の懸念されていたのがこの「残虐な描写」が多いという問題でした。血しぶきや肉を斬つシーンや首を切るシーンを、小さい子が観るアニメやマンガの表現として大丈夫なの?っていう疑問ですね。
作品自体が国民的な正義っていう扱いなので、表立って批判するのは「はいはい逆張りですか?」っていう空気が怖いです。「鬼滅の刃は面白いんだけど自分の子供に見せてもいいんですか?」というような疑問形のカタチで、遠回しに問題提起しているお母さんも多いようです。
この場合のお母さんたちの「子どもの情緒への影響」を、作品論や演出論で切り返すアニメファンやマンガマニアたちは空しいほど咬み合っていません。「人の死をうやむやな表現にしないことのほうが問題」とか「人を斬れば血が出るのが当たり前で、それを隠す方が問題ある」とか・・・ 椿鬼奴さんの「残酷なところを辛抱強く乗り越えた時に本当の良さがわかる」とワイドナショーでのコメントは、本当の良さには何で残酷なシーンを乗り越えなきゃいけないのか?という疑問の説明にはなっていません。
長くアニメを観ていると残虐なシーンや性的なシーンの「残虐シーンや性的暴力のシーンでオトナなアニメを作ってる」という中学生マインドが透けて見えます。「オトナの・・・」ではなくて「オトナな・・・」というところが重要なんです。「残虐なシーンを辛抱つよく乗り越える」ことがオトナへの成長のわけないですよね。
彼らの意見の特徴は「子ども向けだから」とか「オトナ向けだから」と作品を区別することを嫌います。そのホンネは「自分はコドモ向けマンガを読んでいるんじゃない」というプライドなのかもしれません。しかし少年ジャンプは子ども向けのマンガ誌です。
自分は小学生ではないしどちらかといえばオトナだから、残虐シーンを観てもトラウマになったり問題行動に走ることもありません。むしろ知らない小学生がアニメでトラウマになったとしても、自分はなんの不都合もありません。それでも子ども向け作品に過剰な残虐性が必要なのか?という疑問は無視できませんよね。
この作品を支持するオトナたちの意見の「家族や兄妹愛の絆」とか「支え合う人間関係」とか「生と死に向き合う」とか・・・ これらのテーマ性が残虐シーンの先に用意されているのが「良い作品」という風潮なんでしょうか? なんか釈然としませんね・・・
小さい子が観ることを前提にした場合、血みどろな描写の問題点は観ていて子どもが怖がるではありません。むしろ子どもが怖がる反応は正しいです。皆さんのような「アニメなんて作り話だから・・・」って分別がつくオトナになれば、残虐シーンも娯楽として観ることができるようになります。
心配なのは全然怖がらないような子どもたちなんだと思います。怖がる子のほうが意味をちゃんと理解しているから怖いのであって、人(鬼)の首を切り落とす事の意味がピンとこないと「カッケー」っていう感想になります。自分の子どもが友情や努力することを学ぶよりも猟奇的になることのほうが怖いのは母親としては心配なのはとうぜんです。往々にして父親は子どもといっしょになって楽しんでるから問題外です。


 自分が第22話で「コレはやだなぁ」って思ったのは、お白州で炭治郎が柱の人たちに頭を押さえつけられて弁明すら許されないシーンでした。21話以前のストーリーを知らないのでいきなり主人公が捕らわれてるシーンを理解するのに時間がかかりました。
このシーンで思い出したのがかつてのイスラム国にとらわれた外国人が、イスラム国の活動家に斬首される映像のシーンでした。他教徒の外国人は殺してもいいという彼らの自己設定のために無理矢理ひざまずかせ目の前で仲間から殺すというやり方に、下衆(ゲス)な集団の恐怖がありました。
箱に入っている女の子を太刀でぶっ刺すのもどうかなって感じですが、自分が一番怖いのは話しを聞いてくれないことです。イスラム国の恐怖も彼らは自分都合の設定以外に会話が成立しないところでしょう。あの男(銀髪だったか?)が妹の首をはねたら、次は鬼の仲間の丹治朗も殺すつもりだったのか?柱?がいっぱいいるのに、この中から止める人がいないという集団心理。構図は日本赤軍の総括のようでした。
「だって鬼だから殺してもいいんだよ」とか「鬼は刺しても死なないんだよ」っていうストーリー上の設定があるんでしょうが、女の子が刀で刺され血を流しながら苦悶の表情でうめいているのが必要なストーリーってなんだよ?っていう率直な感想です。このシーンのために猿ぐつわという性嗜好アイテムが必要だったのかと勘ぐっちゃいます。
もし炭治朗がお館様をで合口で首を押さえて妹を解放させお白州から脱出する展開だったら、いくらかスカッとする展開になるだろうと思いました。それで炭治郎が鬼殺隊から距離お置くことになっても鬼を統括する十二鬼月よ鬼を抹殺する鬼殺隊、そして妹を人間に戻すためにフリーで動く炭治郎一派という三すくみが作れます。
しかし本編では炭治郎は組織に従順な好青年という役どころなのでそんなキリコ・キューィビーな行動はしません。この気持ち悪い総括シーンもメロン男の「大岡裁き」のおかげで妹も炭治郎も命拾いをします。しかし助けた動機は人道に反するからではなくて、妹の存在は利用価値があると判断したからでした。
炭治郎をひざまつかせていた柱のやつらがお館様(メロン男)にひれ伏し、お館様は独断で解決してしまう。これは武家社会の封建制度そのものです。彼らは太古から鬼と戦っている設定なので、22話から観始めると大正時代だっていうことがピンときませんでした。23話から看護婦っぽいキャラが出てきますが、彼女らの洋装も「アニメってこーいうデタラメが多いから」の枠でみれば違和感なかったし。
大正時代といえば大正デモクラシーのイメージですが、一緒に観ていた同居人は「コレって新撰組が元ネタなんじゃないの?」って思ったみたいです。ファンの方々からは「そんなんじゃねぇよ」っていう声が聞こえてきそうです。 勤王の志士を鬼チームとすれば、鬼殺隊は倒幕を企てる輩を討つ新撰組っていう立ち位置ですね。
自分は封建的な設定でが忠義だ義憤だってワケのわからん理由で戦うストーリーが大っ嫌いです。とくに大河ドラマにありがちな殿様や家臣の関係性を楽しむだけのストーリーは体が受け付けません。
封建的ストーリーが好きな人は部下を駒のように動かすことや、駒になって働く自分が好きな人なんだと思っていました。このタイプのストーリーでは殿様(お館様)のために命を捨てられる家来(鬼殺隊)なんでしょう。
みんなで鬼退治を果たすのが目的だったら、お館さまにメンバー全員がかしこまる必要はないです。そこはチャンバラ時代劇の様式美ということなんでしょうね。この封建社会の様式美で大ヒットしたのが「半沢直樹」です。このドラマに歌舞伎役者がキャスティングされてることも、出演者が決めセリフの時、歌舞伎のような見得を切る(顔芸)のも、時代劇の様式美が日本人の心に刺さるからなんでしょう。大河ドラマが人気なのも
無抵抗の妹を刀でぐりぐりしたり、同僚の社員に土下座を強要したり、そーいう弱い者虐めみたいな小学生向けストーリーが人気なのって、日本人のエンタメが幼稚になっているのかな?って思ったりします。
同じ銀行ストーリーでも、元都市銀行のエリートが訳あってカマ信でおばちゃんの財産整理に奔走する物語のほうがよっぽど心に刺さると思うんですけどね・・・


 テレビアニメ版の第26話はそれまでと打って変わって鬼チームのリストラがテーマになります。鬼チームは1軍にあたる上弦と2軍で構成されている下弦に分かれているようです。レギュラークラスの上弦メンバーに対して下弦の成績が不甲斐ないために全員がクビになるというシーンです。
鬼殺隊はお館様を領主とした封建社会でしたが、鬼チームは鬼舞辻無惨(鬼の親分)が専制君主として独裁政治をしている感じでした。第26話を観て鬼族は無惨とその部下しかいないのか? それとも無惨の部下以外にもたくさんの鬼が日本中に暗躍してるのかがわかりにくい感じでした。
例えば仮面ライダーの宿敵のはショッカーですが、日本にショッカー族がいるのか? それとも反社会勢力の人が非合法団体としてショッカーのコスチュームを着ていたのか? 勧善懲悪のストーリーでは
「悪者チームだから倒しても正義」というのが過ぎてしまい、怪獣だから、宇宙人だから、悪の結社や非合法団体だから、そして人間を喰らう鬼だから・・・ っていう大ざっぱな設定と戦い続けます。
リストラシーンは「半沢直樹」以上に保さんなシーンで「成績を上げられない下弦部門は廃止、下弦メンバーは全員を殺します」というもの。これは子どもに見せられないシーンではなくてサラリーマンをやっている親世代が観てられない生々しいシーンです。「いきなり解雇かよ」っていうのはまさにホラーです。
ジャンプの編集部やアニメスタッフは「鬼の世界の非常さをお館様への忠誠心との対比」って思ってこーいう悪役像を考えたのでしょう。(もう作者の考えは意識しません・・・)
鬼の皆さんは鬼殺隊にクビを斬られ、助かっても自分の親分に殺されたらやってられないです。無惨の問いにYESでもNOでも殺されえるシーンは「理由も説明も事情も聞き入れられない恐怖」を表現しています。これはもっとも恐ろしいことです。人格を全て否定さることは尊厳の破壊であり、人間が鬼に喰われることよりも恐ろしいストーリーです。
この人格や尊厳を破壊していたのが第22話で妹をぶっ刺して殺そうとしていた銀髪のヤツです。そのお白州に集まっていた柱衆のメンバーの誰ひとり銀髪を止めない集団心理は公開処刑を何とも思わないイスラム国系のテロリストを連想する絵でした。
「妹が鬼(資本主義者や他教徒)だから殺してもいいんだ」というロジックは「俺の役に立たないヤツは抹消する」というロジックよりも気持ち悪いです。無惨の行為は「俺が気に入らないから」というジャイアンキャラにありがちな横暴さは理解はできます。(共感はしませんけどね・・・)
しかし立場の違う相手を害獣駆除のように扱う作品は、個人的に許容できません。黒人を射殺したことを咎められて「何怒ってるんだよ、コイツは黒人だよ・・・」っていう世界が現在の先進国でも行われている世の中です。
マンガにイデオロギーを挟むのは批評としては最低なのは自覚していますが、どっちが気持ち悪かったかといえば第22話のお白州回のほうでした。しかし「無限列車編」を観る意欲がゼロになったのは第26話で何故か生き残ったエンム(変換のしかたがワカラン)が、アニメに必ず出てくる気持ち悪いタイプの悪役だからです。「人を殺すことや死への恍惚感」を出すキャラですね。
人を殺す事に理由がないキャラはとても怖いキャラなんですが、その怖さは集団心理で「異議なし」ってアジってるキャラ同様に言葉が通じないという怖さです。悪には悪のい理屈があるんだったらまだしも、「殺したいから死んでくれ」っていうんだったらそんな戦いは無意味(ストーリー的に)だという気がします。
エンムにも悲しい事情で殺人鬼に成り下がってしまった「鬼美談」があるのかもしれないし、映画を観た全ての人がエンムの悲しい結末に涙したのかもしれません。元々は優しい人間だったとか言いそうな感じがします。でも快楽殺人鬼と戦う話のどこにいい話感を持ってくるのかは興味があります。



 第26話で衝撃のシーンがありました。劇場版「鬼滅の刃 無限列車編」へ続く駅でのシーンで、刀を差しているイノシシ小僧たちに、警察から銃刀法違反で追っかけられていました。鬼殺隊の存在は非合法で社会に認知もされていないという衝撃的な事実です。
オトナの方々が「ジャンプマンガだけど子ども騙しじゃない本格ストーリーだよ」って聞いて観に行くと、こーいう部分に「お子様アニメ」って思っちゃったりします。日常のリアリティーと非日常のファンタジーのあんばいは「Fate(フェイト)」なんかのイメージに近いです。
鬼殺隊と十二鬼月の抗争は大日本帝国も国民も関与しない(求めていない)争いだったのかな? 当時の日本の工業技術だったら疑似太陽光投光器とか新兵器を三菱なんかの財閥が作って、鬼を追い詰める展開だってありそうです。鬼の存在が国民に対して有害だとしたら、鬼退治をお館様の既得権益にしてるのも違和感がありますが、ファンタジーの概念では「日輪刀じゃなきゃ倒せない」という設定に違和感をかんじません。あっちのほうのファンタジーゲーム系の「オリハルコンの剣」など、いまさら誰も「オリハルコンって何?」って思わないんでしょうね・・・


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