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2018-04

恋愛は砂糖のごとし - 2018.04.22 Sun

白浜 鴎さんの「とんがり帽子のアトリエ」です。

 白浜 鴎さんの「とんがり帽子のアトリエ」は前作「エニデヴィ」に継ぐキャリア2作目です。それ以前はフリーでイラストやアメコミの表紙を描いていたようです。マンガ家はスキルで分けると美大出身とラクガキ出身になります。マンガなんていうものは絵の勉強や美術の基礎が必要なほど難しいモンではないけど、作画という作業がある以上は美大に有利なのは確かです。白浜鴎さんは東京芸術大学の出身で、美大も音大も芸術の大学なんですが芸大と名乗れるのは東京芸大だけです。
プロフィール非公開なので調べたけれどもあんまり情報はありませんでした。名前から推察するにヨコハマ生まれなんかな?くらいのイメージですね。性別も非公開ですが、以前に「モーニング」のサイトで白浜鴎さんがペン入れをしている画像が公開されてました。その時に観た印象では男の人の手なんじゃないかな?って思いました。違っていたら大変失礼なんですけど…
ファンタジーを描くにあたって「指輪」とか「ナルニア」とか「魔女の」などの単語はちょっと使いにくいですよね。「とんがり帽子」という単語で「メモル」が浮かばない世代だったら、白浜 鴎さんは若い人なんだと思います。

 自分の中での「エニデヴィ」の評価は、あんまり高くありませんでした。ビームコミックスで全3巻出ていますが自分は1巻しか読んでいません。当時から画力の高さは定評があったんでしょうけど、同誌で森薫さんと競合してるから絵が上手な人って印象も残りませんでした。コミックビーム(Fellows!やハルタなど)の編集部は掲載するマンガ家に森薫さん風の描き込みと入江亜希さん風のファンタジーを強要してるイメージです。結果としてどの作品も一定の作画とセリフの書き込みはスゴいけど、読み続けるにはどうかなぁ?っていう感じのマンガが多いです。描き込みが多いマンガが絵の上手な漫画ではなくて、セリフが多いマンガが内容の濃いマンガでもありません。
コミックビームは良くも悪くも、マンガ家の思い入れがそのまま作品になっている感じがします。結果として絵が上手な作家は描き込み過ぎで画面がゴチャゴチャしている印象で、ストーリーが得意な作家はセリフが過剰すぎて言いたいことが伝わらないって感じです。
たとえば『クルマのノブに手をかける、ドアが開き、シートに座る、エンジンをスタート、クルマがガレージから出る』こーいうシーンで全ての行動をコマ割するのがコミックビーム的なんですよね。他所の編集者だったら「この5コマ、1コマにならない?」って言われると思います。むしろ全部のシーンを省いて、いきなり目的地に着いちゃっても構わないんです。逆にセリフのほうは、ひな壇のウンチク芸人のごとく、よくしゃべります。クルマのシーンなど映像は克明に描写しますが、ストーリー展開はセリフ任せっていう印象です。
マンガはいかに情報量を絞って最適化させるかが勝負になります。マンガの絵が上手であることと緻密、正確に描くことはイコールではありません。福本伸行さんの絵は「カイジ」を描くのに最適化した作画です。「エニデヴィ」を読んだ印象は「芸大出身がマンガを描くとよくあるパターンだ」っていう感じでした。芸大出身って最近知ったんですけどね。
前作の「エニデヴィ」を読まなくなったのも単純に読むのが面倒くさいからでした。作品の内容が好みのジャンルではないという部分もあります。1ページの中に思いついたアイデアを全部描き込んじゃうような感じが読みにくくしてるんですね。その読みにくさを個性的と捉えるのはマンガファンの優しさですが、読者の心遣いに頼ってるのもどうなんでしょうね…

 今回、取り上げる「とんがり帽子のアトリエ」は前作「エニデヴィ」にあったネガな印象がほぼ全て解消されてっていう感じです。もう芸大出身マンガという揶揄が出来ないほど「絵が上手なマンガ家だと思ったら芸大出身なんだ、ナルホド・・・」っていう感じです。描き込むというコトや絵を動かすというコトがマンガの目的ではなくて、ストーリーをより豊かに表現するための手段になったっていう感じです。描き込み大王の森 薫さんの「エマ」も初回は殺風景なタッチでしたがより英国貴族階級を表現するためにあんなになっちゃったんです。
個人的なイメージですがファンタジーマンガを描く人の中で本気で絵がスゴいって思えるのは少ないです。最近では「ハクメイとミコチ」の樫木祐人さんが1位かな?現実社会を描写する事を避けて空想描写に逃げる人と、空想描写が描きたいだけだからイラストになっちゃってる人のどっちかばっかりです。一番多いのはファンタジーのネタをパロディのように扱って“あえて崩したタッチ”でごまかしてる人です。そーいう画力重視のコミックビームの中でも森 薫さん入江亜希さんに続く3枚目の先発に十分なる資格があります。しかし「とんがり帽子・・・」はコミックビームじゃなくて講談社の月刊モーニングtwoで連載されています。マンガに必要な画力やシナリオの技巧などを講談社の編集部がレクチャーしたっていうのが想像できますよね。「エニデヴィ」からのファンで続けて購読してる方には解りにくいでしょうが、「とんがり帽子・・・」を読んだ後に「エニデヴィ」を読み直す順番で画面を見比べると、どこら辺が改善されているのかがよく解ると思います。コミックビームはその部分は作者のオリジナリティ(個性)というか、ある意味独創性重視っていう感じにこだわっています。しかし白浜 鴎さんはあきらかに流出しちゃってるのは問題じゃないのかな?

   JPEGブログ画像 とんがり帽子のアトリエ 

 それでは本編についてです。ファンタジー作品はネタバレにうるさくないイメージなのである程度内容を説明します。他の魔法ものとどう違うのかの差異を説明する必要もありますので、どーしてもフレッシュに読んでみたい人はこれよりNGです。
この作品はファンタジーファンから三つの要素で評価されています。その要素は以下の通りです。

1 繊細で美しい画力
2 緻密に考証されたファンタジー設定
3 魅力あるキャラとストイーリー

自分が「とんがり帽子の・・・」を買ったのは完全に本屋でのジャケ買い(表紙買い?)です。そもそも「エニデヴィ」のことなんかまったく記憶にありませんでした。買った本の作者プロフィールに書いてあって「あぁ・・・」って思ったくらいです。まず素晴らしいのはファンタジーの世界観を作画で表現できていることです。ト書きに頼らずに異世界のストーリーだという事を納得させられるのは読む価値がある作品だと思います。
ファンタジーというのは非日常のお話なので設定がすべてのキモになります。この作品の評価されている部分は魔法の概念の設定の新しさにあるという事のようです。魔法が存在する世界で魔法使いをどう考証するのかですが、この作品っでは「魔法はかけるのではなくて描く」という設定です。描くというのは魔法を描くグッズを使って魔法の図案を描く事によって誰でも魔法を発動させられる。ということです。
このストーリーは『魔法に憧れていた主人公のココが幼少時に祭で魔法のグッズを買わされて、ホンモノの魔法使いに出会い魔法を描くという概念を知ってしまい無資格ながら魔法を使ってしまう。その結果魔法が暴走してしまい自分の母親が石になってしまう。本来なら費持つを知った“知らざる者”は記憶を消されるのだが、ココは母親を助けるために魔法使いになる道を選ぶ・・・』ってお話。
魔法世界の設定がよく練られているという評価ですが、魔方陣を切るっていうのは新しいのか?っていうのがファンタジーに詳しくないのでよく判りません。魔法の修行というのも「上手に図案を描くための知識と経験を積む」というのが目的でその修行の場が表題のアトリエです。別に設定の新しさはあんまり感じませんでしたが魔法が敵と戦うための技ではなくて人々の暮らしの役に立つ公共の行政的なモノというのは新しいのかも知れません。作中のルールでは「魔法を靱帯に向けて使ってはならない」という大原則を唱えています。したがって今後も魔法戦はないんでしょう。魔法使いモノは「まどか☆マギカ」のような選ばれた者同士の殺し合いになりがちですが、そーいう方向にストーリーが向かうんだったら読まないです。
この作品への作画に対するマンガファンの評価は概ね高いのですが、ストーリーも従来の魔法使いファンタジーに比べて絶賛されているようです。各種マンガ人気投票モノにランキングされてる評論を読むと「今までにない本格ファンタジー」とか「登場人物が魅力的で丁寧に描かれたストーリー」という意見が多かったようです。「ハリーポッター」を重ねる読者が多いのも作者の児童文学のセンを狙うという思惑が上手くいっているようです。
しかし自分はファンタジーファンではないので「これぞ王道ファンタジー」という評価を読んでも自分の中にファンタジーの基準がないので何が本格でどこが王道なのかはさっぱりです。評価のコメントの中で「ありふれたストーリー」というのは王道の裏返しなんでしょう。

 現在3巻まで出ていますが自分はちょっとくじけそうです。「エニデヴィ」に比べたら余裕で読めるんですけど、正直なところストーリーにそんなに興味側かないです。ジャンルとすれば魔法使いものですが、ベースになるのはエコールものです。中心になるのは魔法学校(アトリエ)に学ぶ4人の姉妹弟子と師匠のキーフリーの話です。要は彼女らに魅力があるかがキモなんですが、ちょっと幼すぎて読み続けるのが辛いです。そもそも母親が石になっちゃったことがお話の発端なのに、天真爛漫な設定の主人公は無邪気に魔法使いになる修行を始める。作品のテイストが「幼い少女が無邪気に魔法使いの修行をする」ことなので多くのファンタジーファンにとっても満足なんでしょう。やっぱり「母親が石に変えられてしまった主人公」というのが当たり前な展開過ぎて、主人公が冒険の旅に出てエンディングに呪文が解けて人間に戻ればいいんでしょうか?主人公は新しい環境で念願の魔法の修行ができて日々がワクワクなんですが、3巻で思い出したように母親のことでうなされますけど、本当に忘れてたのかな?世の中の魔法に対する冷めた印象と魔法使いのセリフで語られる魔法の必死さにもギャップがあります。全編通して魔法の説明や禁止魔法についてや魔警団という新設定の話ばっかりです。あんまり魔法使いの日常やアトリエ内での暮らしぶりをのんびり描くタイプの作品じゃなかったみたいです。魔法の練習(修行)は来たるべき試合(敵の魔法バトル)のためなのか?
実際にもう『禁止魔法の絵本の謎もつばあり帽の謎も解けて、母親が人間に戻りました』ってなったとして、それで石になっていた母親と主人公のココが再会して、今さらどんなセリフを言うのか?いっそ母親を殺しておいたほうがストーリーの展開がラクになるのに。この作品は『魔法使いになることを頑なに反対していた母親が魔法のために死んでしまい・・・』でも始められるストーリーです。この場合のメリットは母親を助けるイベントが省けるのでストーリー展開が自由になります。もうすでに今さら感が強くなっている母親の石化問題ですが、ストーリーはキーフリー師匠の闇と本当の敵に向かっちゃっています。落としどころが判りませんが連載が長びくといつの間にか主人公が世界を救う事を強要されて伝説のヒロインになっちゃいそうです。それは王道だからいいのか・・・

 読むのがくじけそうな理由は魔法使いの行く末に関心がわかないことよりも、登場人物に共感が出来ないからだと思います。この作品はキャラの魅力が売りなんでしょうけど、なんだかアニメっぽいキャラ設定が物語を幼くしてる印象です。アトリエの弟子たちは少女なので幼いのは狙い通りなんでしょうが、この幼さは児童文学由来の幼さです。児童文学とは何ぞや?ってところからになるんですが、児童文学とは児童のために作られたお話です。これに児童に読ませたい既存の子供っぽい物語などを合わせたものが児童文学という枠組みです。原則お子様向けに書いたストーリーを指すとすれば、「ハリーポッター」や「少年探偵団」は児童文学です。逆に「不思議の国のアリス」はルイス・キャロルがただのヘンタイ野郎だったので児童文学とは言いがたいです。「かぐや姫」も平安ブルジョア・ラブロマンスなのでとても児童文学ではありません。
作者が意図的に児童文学にしたのか、それともアニメ的な世界観や慣習に引っ張られたのかは判断が難しいですが、結果は同じように幼稚な印象がする作品になってしまいました。アニメの美少女ものに多く観られる傾向はキャラに恋愛感情も持たせないというのが流行りです。コレは作中のキャラをアイドル化しているためでAKBで恋愛禁止と同じ発想です。「大好きなキャラに彼氏設定があったら萎える」というのが行きすぎてしまって、キャラの人間味が薄れてしまっています。最近流行りの百合キャラもLGBTに配慮してるんでもいなんでもなくて「女の子同士だったらセーフ」という暗黙のルールによるものです。
昔のアニメでは明確に恋愛感情を表すのが当たり前でした。どのキャラにも好きな相手がいるもんで、高橋留美子さんのキャラはみんな好きな相手がいるから読みやすいんでしょう。主人公に好きな人がいるほうがどーでもいい内容のストーリーでも観続ける動機になります。ヘンテコな設定の作品が多い印象の森本梢子さんなんかは強引過ぎる設定も主人公の強引な恋愛感情で「取りあえず読んでみるか」って思わせるチカラがあります。
ここで言う恋愛感情とは一寸した好きっていう思い出会っても十分に効果があります。例えば「パトレイバー」の場合、押井守さんには恋愛感情がありませんがゆうきまさみさんにはあります。惜しいさんはそーいうのが根本的に無理な人なので遊馬と野明の関係は信頼関係ですが、ゆうきまさみさんは野明のことを大事にしすぎちゃう傾向にあります。じゃあゆうきまさみさんのパトレイバーが恋愛マンガかといえばそんなことありません。しかし惜しいさんの演出よりも人間関係が豊かなのは比べればわかりますよね。

 魔女つながりだと「魔女の宅急便」はキキがトンボにほのかな恋愛感情があることを見せているから成り立っているんです。もしキキが男の子にまったく関心が無くて、トンボなんか知り合いの一人だったとしたらどうでしょう? クライマックスはただの災害救助アニメになっちゃいます。魔女の正義感や社会奉仕の部分がメインのストーリーだったら、むしろわけへだてなく魔法を使う(飛んでいただけだけど)ほうがアリでしょう。このパターンは世界を救うタイプのファンタジーやロボットアニメに観られる傾向です。「魔女の宅急便」の作品が魔女の社会貢献ではなくて、キキという主人公の人間関係や環境の変化による成長のストーリーだとしたら、キキとトンボの関係性が重要になってきます。「魔女の宅急便」は宮崎駿さんにしてはそーいう所が上手くいった作品だと思います。過去の作品でも「未来少年コナン」のコナンとラナが好きすぎて世界を救ってしまう話とか、ダイスとモンスリーのツン・デレも「みんなで団結して戦おう」みたいな幼いストーリーを観れるモノにする重要な要素でした。
「とんがり帽子の・・・」ではキーフリー師匠に人気が集中しているようです。ファンタジーファンのツボを押さえたキャラデザインなようです。しかし本編の中でキーフリーに憧れるキャラや惚れるキャラは一人も出てきません。このキャラにはストーリーの骨格になる“裏の顔”がアルので、そこを示唆するように弟子の少女たちに見せる“優しいお兄さん”とは違う魔法界の問題児的な言われ方ばっかりされます。実は3巻通しても誰からも好かれていないんです。格好いいとすら言われていません。弟子たちから慕われているようなんですが、本当に山の分校に生徒が4人担任がひとりっていう感じしかしません。キーフリーが主人公のココのことを好きになるのは論外ですが、ココがキーフリーのことを好きにならないのでは、キーフリーが好かれるキャラという担保がとれません。ココは新キャラのタータ君と知り合いますが100%恋心はありません。キャラの相関関係の中で誰と誰が両思いとか片思いとかいう線がまったく無い作品です。例えば初期のエピソードで成績優秀な弟子のアガットがシロウトのココに無謀な課題を与えて殺しにかかるという展開ですが、このアガットの行為は「魔法の知識のない部外者のココをアトリエから追い出す」のが目的でした。課題が失敗したら生きて帰れないくらいのことをさせるアガットに、今後読者の信用を取り戻すのは大変です。これを『アガットはアトリエ内での成績優秀でキーフリーの寵愛を独り占めしていたと思っていた。しかし突然ココが現れてキーフリーが特別扱いするから“嫉妬”してココを追い出すために危険な課題を与える』っていうストーリーなら、キーフリーは弟子なんか全員子供扱いだから不毛な戦いだったで終われる展開でしょう。ココもキーフリーに惹かれるけどそれは幼い恋心という場合、幼い恋心は文字通り幼いストーリーですが、恋心もまだ芽生えないほどの子供が主人公のほうがナンボも幼いストーリーです。たとえば今は女児と先生の関係でも数年もたてばココも適齢期になります。数年もたてば本編の魔法の技術も一人前になるし「もう師匠と弟子の関係じゃないんだからね♡」ってココが迫れば不自然でも犯罪っぽくもありません。そーいう目があるならば、つばあり帽のヤツらや魔警団の方々に興味がなくてもキーフリーとココはどーなるのかな?ってだけで読み続けるモチベーションにはなります。白浜 鴎さんは興味がないなら読むなって思うかも知れませんが・・・これは恋愛ドラマが観たいわけではなくて、そーいう関係性を作るとキーフリーはココを裏切らないという担保になるということです。
このままだとキーフリーはいざといなったらココを殺しにかかるような闇を抱えています。そーいう超展開は手早く反響を求めるアニメでは使いがちな悪手です。それは王道ファンタジーとはいいません。そーいう読者への裏切りは話題作りには向いてますが、読者を裏切るのは作品の致命傷になりかねません。普通の読者が思ってるどんでん返しってそーいうモノじゃないってことをもっと考えるべきです。

 作品における恋愛の要素は砂糖に置き換えると判りやすいです。砂糖は料理には欠かせない調味料ですが思想的に砂糖を使っちゃダメっていってる人も多くいます。砂糖が入っているから食べないとか、料理にさとうを使わないといったノンジュガー論者たちです。それはそれで思想的な部分でどう考えるかは自由です。
単純な例だと肉じゃがが作れない人ってあんまりいないと思います。まぁベーシックに料理の基本だけで当たり前の食材ですしね。小学生でもカレーはなんとか作れますが、肉じゃがは中高生ならまぁ作れて当然でしょう。何故ならばカレーや肉じゃがは日本人が美味しいと設定してるメニューだからです。肉じゃがの味が決まらないの悩んで人は、砂糖を入れないからでは?っと疑ったほうがいいです。しょっぱいおかずに砂糖を入れたがらない人って知り合いの中でもけっこういました。砂糖は危険物質というヘンテコなキャンペーンのせいなのか?もこみちさんだって肉じゃがにオリーブオイルは入れませんが砂糖は入れています。肉じゃがは一度冷ましてからが美味しくなるよ・・・
ストーリーにおける恋愛要素というのはそれ自体がストーリーではなくてキャラの人間関係の構築に影響するものです。恋愛要素=砂糖だから多く入れすぎると甘ったるいストーリーになります。恋愛マンガとはこの恋愛砂糖菓子のような作品です。これはこれで甘党の人にしか向きませんが、すごく甘党な読者もいます。逆に糖質ゼロという作品もあって、辛口な成り上がりバトルや苦い社会派の問題提起ものなんかがすきな人も多いでしょう。そーいうのは甘いケーキやカレー、ゴーヤチャンプルなんですが、肉じゃがのようなストーリーの作品には砂糖が必要なんです。砂糖には甘くするというよりもうまみを増すという効果があります。当然ながらストーリーには塩味も必要ですがこっちも塩分控えめっていう先生が多いですね。この作品でいえばアガットは塩分なので他のキャラが糖分を補えば良かったんですが、いかんせんキャラ設定がアニメ的なため役割しか設定されていません。

 主人公が「ぼくが世界を救う」と叫んで感情移入出来るのは小学5年の男子までです。女子はたぶん「プリキュア」を観なくなる歳になるともう通用しません。きっと女子はもうちょっとエッチなモノを読んでるハズです。そこら辺は男子のほうがスケベという社会通念がありますが、女子のほうが全然先に行ってるもんです。そこの世代が対象なのが児童文学なので児童文学が面白いハズはありません。自分は小学生の学校の図書館の中にある児童文学がつまらなくて一切拒否してました。読むように強要する先生に「こーいうことじゃないんだよ」って文句をいっていたが聞き入れられなかった思い出です。そのころ氷室冴子さんや新井素子さんを読んで「こーいうこと」だと納得しました。
「とんがり帽子のアトリエ」が今後ダークファンタジーを目指すのか、ふわふわファンタジーを目指すのか、児童文学なのかは判りません。しかしふわふわなエコールものはないようで、姉妹弟子たちがじゃれ合うようなストーリーは期待薄です。なんか意地悪のことを言うキャラばっかり増えてきてもっとも人間味のある道具屋のノルノアさんもキーフリーに記憶を消されちゃいました。記憶を消すというのがこの作品のキラーワードになっていますが、このセリフがこの作品の魔法が好きななれない原因だと思います。なんだか作品全体に砂糖が足りないんだよなぁ・・・


「ほぉ」って思ったら押してね

高畑さんの代表作は? - 2018.04.14 Sat

4月5日、アニメ監督の高畑 勲さんがお亡くなりにないました。

 4月13日の日テレ系金曜ロードSHOW!では追悼プログラムに差し替えて「火垂るの墓」がオンエアされました。当初は13日は劇場版コナンの新作公開日なので、日テレとしても金曜ロードSHOW!で劇場版コナンをオンエアして援護射撃する予定でした。しかし日テレのプロデューサーの英断即決にて追悼企画に」なったとのことです。東宝やら代理店などの思惑とは違うだろうけど、日テレとしては最大限に筋を通したって感じでしょう。
個人的には「かぐや姫の物語」を観に行った時に高畑作品とはお別れがすんでいます。親戚でもない82歳のおじいちゃんだったら「まぁ亡くなるわな」ってことです。作品を観せてもらっているだけのファンなので最後の作品こそが見納めですが、次回作とかの構想もなかったんだったら余生はもう近親者のハナシなので悲しいとかは特にないです。だから「惜しい人を亡くした・・・」多度のコメントを言っていいのはソレこそ宮崎駿氏くらいでしょうか。一番近いイメージは落語家の大師匠が大往生したって感じでしょうかね。

かぐや姫の物語の記事はコチラ→http://likea777.blog33.fc2.com/blog-entry-202.html

 「かぐや姫の物語」は高畑さんの真意はわかりませんが、間違いなく高畑アニメの集大成のつもりで作ったというような大げさなアニメ作品です。ストーリーそのものはありふれた竹取物語だし大げさな演出や問題作でもありませんでした。むしろ「何の問題もないアニメ動画とはこーいうモノだ」っていうメッセージすら感じました。予算と日程を湯水のごとく使い、納得のいくアニメ映画を作りたいという老後のたしなみとした最高級の老後の余暇を楽しんだと思います。同じ時期に最大級の余暇のチャンスを与えられたのに楽しめなかったおじいちゃんが宮崎駿さんです。彼はまだ煩悩に苦しんでいます。
日テレの追悼プログラムが「火垂るの墓」なのは高畑さんの名実ともに代表作だからでしょう。故人は「かぐや姫の物語」のほうを選んで欲しかったんじゃないかな?訃報がニュースで伝えられた時にラジオで宮台真司さんが追悼のコメントをしていました。そこで彼が高畑さんを褒めちぎるためにだした作品が「ホルスの大冒険」で、アニメに普通の知識しか持ち合わせてない強啓さんらをぽかーんにして熱弁を振るう宮台さんにトホホな気分になりました。なんで知識人の設定の人ってアニメの知識でマウントを取りたがるのかな?「アニメに詳しい=幼稚」からの「幼稚だと思ってる人は頭の固い旧人類」っていう感じでしょう。しかしホルスそのものは東映まんがまつりだし・・・
アニメファンとアニメ知識人の作品の評価の仕方にはちょっとした違いがあるような気がします。アニメファンはアニメ的表現の部分に特化した評価が多いです。戦闘シーンやヒーローの決めポーズ、ヒロインの可愛さや名セリフなど。知識人系ファンは監督の作品のテーマやメッセージ、オマージュ、隠しメッセージなどです。客席の子供にとってはおおよそどーでもいいことばかりを蒸し返して得意になってる印象です。隠しメッセージを入れ込むのに躍起になって本編の筋が破綻してるアニメ監督も多いですが、それは高畑さんの作品の批評には違和感があります。
太陽の王子ホルスの大冒険」以降の高畑さんの功績は「アイヌ文化が~」とかじゃなくて、アニメが二次元なのが当たり前だった時代に三次元の画面作りを見せてくれた事です。昔のアニメって画面が平面なのが当たり前でした。これを高畑さんの演出、大塚さんの作画でアニメに空間を意識させることと日常の暮らしがアニメで表現できることを示してくれた作品です。
宮崎駿さんや庵野さんは「一般のアニメファンに理解出来なくて当たり前」というスタンスなので、アニメ知識人たちの喜びそうな隠し扉がたくさん入っています。この隠し扉を開ける作業が宇多丸さんの映画時評なんでしょう。それでは高畑さんのスタンスはどうでしょう?高畑さんは「一般のアニメファンには気づかないような部分も気づく人に観られたときにハズカシイ」って感じかな?自分の知る限りでは正しい作画と正しい演出を求め続けて、他の監督が“作品性”とか“演出”とかごまかしてしまう部分も、その作品の中の正解を求める作品作りです。宮崎駿さんもNHKの密着取材などで観ると相当の完璧主義者です。しかし彼の中の完璧とは自分のイメージの中の完璧であって、高畑さんの完璧は客観的に作品がどう観られるかにたいしての完璧です。

「火垂るの墓」は作者の強いメッセージが込められた作品っぽいので高畑さんのテーマやメッセージが込められてるような感じもします。でもこの作品は裏表なき反戦アニメでしょう。この中に執拗に込められた怖さの正体は野坂昭如氏の実体験からの凄みです。それをもっとも効率よく作品化したのが高畑さんです。多分この作品をアニメ化するのだったら他のアニメーターにでも出来る事でしょう。原作は普通に直木賞作品なんだし、誰がつくってもお決まりの終戦マンガになると思います。それを「この作品だけは悲しすぎて観れない」とか「ジブリ作でも火垂るの墓だけはムリ」って言われるほどの作品にしました。誰もそこまでの火垂るの墓を作ってくれとはいってないのに、完璧な火垂るの墓を作っちゃったんでしょう。
自分は「火垂るの墓」を初見でみたのは「となりのトトロ」との同時上映でした。あんまり面白くなかった印象です。理由は高畑さんの監督だからということではなく、火垂るの墓のストーリーがつまんないお話だったからです。問題は野坂昭如の回顧録がつまんなかったことでしょう。もちろんトトロ目当てで映画館に行ったんですが、トトロのほうも思っていたような作品と違ってたので・・・
高畑作品でもっと評価されるべきなのは「じゃりン子チエ」だと思います。この作品は劇画誌漫画アクションで連載されていたはるき悦巳さんの原作のアニメ化です。そもそもはるき悦巳さんの作風がオール手描き、トーンも不可というようなオリジナリティ溢れるタッチのマンガで、そのタッチにこそ魅力がある作品でした。マンガをアニメ化するのは結構ハードルが高いのですが、アニメファン以外の人たちも観ることになるので評価が曖昧になっちゃうところがあります。しかし「じゃりン子チエ」のアニメ版は初めからアニメだったと思ってる人も多かったんじゃないかな?
アニメで大成功した「この世界の片隅に」は原作のこうの史代さんのタッチで頑張っていますが、やっぱり清書した感じがします。原画のもつ躍動感?むしろ躍動しない静物感がでていない感じです。
「じゃりン子チエ」の場合はどこまで描き込むべきでどこから流すべきかの線引きが絶妙です。動きで魅せる演出とセリフでたたみ掛ける演出のバランスに高畑さんのアニメ演出の技が詰まってるんでしょう。故人の名誉のためにも書いていきますが「ホーホケキョ・・・」は失敗作でしたがあれはいしいひさいちさんの原作の世界観が面白く無かっただけでしょう。画面が薄ぼんやりとモヤっていたのはいしいひさいちさんが4コママンガ家で背景を描き込まないからでしょう。高畑さんはいしいひさいちさんの世界観を忠実にアニメ化したからつまんない作品になっちゃったんでしょう。今思えば大人が作った「けいおん!」って感じかな?


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パラリンピックの障壁 - 2018.03.30 Fri

障害者スポーツにおける障壁について

 平壌オリンピックでの日本人メダルラッシュの感動が覚めやらぬまま、時差開催だった平昌パラリンピックも連日のメダル獲得のニュースに沸きました。特筆は総メダル数10個のうち、村岡桃佳さんの金銀銅コンプで5個という快挙でした。現地の平昌でもいろいろ疑念が吹き上がっていたわりには大盛況で、目標の1.5倍の売り上げで入場者数も前回ソチ大会より6割も増えたようです。
今回のオリンピックは開催地がにほんと時差なしだったのと、アメリカの都合で面白い競技が日本のプライムタイムに行われたのでメダル獲得シーンをテレビ観戦できました。この平昌での成功?は雪が足りないとか風が強いとか海上が寒いとか宿が、渋滞が、ノロウイルスが・・・とかいう心配は終わってみれば「何とかなったじゃん」っていう印象です。サッカーのリオW杯でも何とかなったし。東京オリンピックも暑いとか会場アクセスや渋滞とかバリアフリーとかボランテアとかテロ対策とか・・・いろいろ心配はつきません。でも始まっちゃえば何とかなるというのは歴史が証明しています。何とかならない事態のほうが好きな人たちはネガな事ばっかり騒ぎ立てます。東京大会をもっとも過酷な大会として、オリンピックの歴史に刻むのだって面白いですよね。

 本題のパラリンピックですが、あえて大会日程が終了後に記事にします。正直いうと開会式なども含めて1度もテレビ中継を観ませんでした。たまたま観るタイミングがなかったとか忙しかったという言い訳ではありません。観ようと思わなかったからです。社会弱者にキビシイ印象?の韓国の方々でさえ6割も観客が増えたのに・・・
日本のマスコミも「パラリンピックまでがオリンピックだから・・・」とか「パラにも目を向けて」っていうアピールをしていました。でも当のマスコミの時間の割き方にしても関心の低さは否めません。それこそ、村岡桃佳さんや成田緑夢さんのおかげでマスコミも世間も盛り上がれた感じです。「今さら何いってんだよ。パラリンピックだって同じオリンピックだよ」っていうファンだっています。関係者以外でも純粋にスポーツとして観戦して熱く応援した人だってたくさんいます。でもそんなに関心が高くならないっていうのがホンネです。
自分はパラリンピックやパラリンピックを応援している人を否定するわけではありません。むしろ人として取るべきスタンスは「障害者スポーツを理解し普及を応援するべき」なんですが、なんだかしっくりこないんですよね。パラリンピックも普通にスポーツ競技として成立してますから「健常者の競技も障害者の競技も同じように声援を送ろう」とか「オリンピックには興奮してパラリンピックは冷めてるのはけしからん」という意見も理解できます。理屈はそうだけど、けしからんって言われるほどダメなのかな?って感じです。

 スポーツ観戦には「自らもするし観戦も好き」という人と「自らはしないが観戦も好き」という人がいます。これと「自らはするが観戦は興味無し」と「自らはしないし観戦もしない」の4パターンになります。自分の知り合い関係でしたら、元サッカー部にJリーグファンが少ないような印象です。
自分はややスポーツもしてきたし、観戦もしてきなっていうレベルです。「テニスをやろう」って思ったら4大タイトルを観るようになったり、Jリーグが始まったら会社で草サッカー部を作ろうってなったり。スポーツ観戦のベースは浦和レッズとベイスターズです。それに浦和レディースやアルティージャあたりまでが生観戦です。それ以外にも旬の話題のスポーツ選手は応援をかねて気にしたりしています。最近の注目はテニスの大阪さんとかね。まぁスポーツでミーハー観戦はアリですよね。
スポーツ観戦と運動会の観戦の大きな違いは何でしょう?それは勝ち負けにこだわるかどうかだと思います。自分の親族の子が運動会にでているのを観戦するのは、その子が必死に走ってる姿を観るだけで完結しています。普通のお父さんは「ウチの息子の紅組は白組に25ポイント離されてるが、リレーの結果次第ではまだまだ追いつく可能性が・・・」みたいなガチで展開を読んでいません。ましては転んでしまった息子に「お前のせいで紅組は最下位だぞ」なんて言葉はもっての外です。
反対にプロスポーツの場合はどうでしょう。浦和レッズの今季はちょっと上手くいっていません。本当はかなりヤバいチーム状況です。サポーターと呼ばれるファンの人たちのマインド険悪になっちゃっています。「お前のせいで・・・」っていう罵声が許されるのがプロスポーツ観戦です。NGワードは「だったらお前は出来るのか?」です。これは自らするが観戦しない人の多くに見られる言葉です。
スポーツ観戦の醍醐味は「よっしゃー!」と「あー、もう・・・」が同居しているところです。例えはこれから映画マニアになろうって決めた人が、ネットの映画サイトを駆使して面白いと評判の映画ばっか観ていてもマニアにはなれません。傑作と駄作の両方を知らないとね。

 日本人の多くが4年に1度だけ羽生結弦ファンになります。彼らは毎シーズン滑っているんだけど、この年だけは日本中が父兄参観のようにテレビに釘付けになります。自分の息子ではないのにね。しかしこの中継には「よっしゃー!」と「あー、もう・・・」が両立しています。日本中の誰ひとりとして「転んでもいいんだよなんて思っていません。その中で勝ち負けが着くからスポーツ観戦は面白いんです。フィギュアスケートは競技後に入賞者たちのエキシビションが行われて、エキシビションの方が好きなファンも多いと思います。こっちのほうがフィギュアの本質があるし、競技はエキシビションの出場するための予選って感じでもあります。
もぐもぐでカーリング旋風をおこしたLS北見ですが、彼女らを取り巻く環境は完全に父兄参観って感じです。しかし彼女たちをニュースで知ってる人と、2時間オーバーの試合を観戦した人では印象が違ってます。大多数の日本人はみんな彼女たちが「自分の姪っ子や同僚のOLにいたらいいな」って感じでした。あんまり彼女って想定してない感じがいいんですよね。
しかしメガネ先輩との死闘や、ギリギリの攻防だったイギリス戦は「失敗しても、いいよ、いいよ」なんて雰囲気ではありませんでした。本質はあくまでも準決での敗戦後の号泣のほうでしょう。当の彼女たちの試合中の「失敗しちゃった、てへぺろ」は前向きな思考を維持するために編み出された戦術だったんです。結果としてそーいう戦術ができる選手が、国内大会を勝ち上がってきたんです。
カーリングの観戦中にこの競技が何をやってるのかが判ってくると、誰もが投げる前に“詰めカーリング”をしてたことでしょう。「ココに置いて・・・コレをはじいて・・・」って感じで。自分がカーリングでイメージしたのは40メートル離れた将棋盤へ20㎏の桂馬をそーっと置くような競技です。ドコにどの駒を置くか決めても、ソコに置かないと意味がないです。観戦中は当然ながら「あー、違う・・・」とか「決めてくれ・・・」ってなります。
女子アイスホッケーのスマイルジャパンも以前ならオリンピックに出場してるだけで満足でしたが、今回は可愛いよりも勝つことを期待したファンが多かったです。もう運動会や父兄参観ではなくなってます。勝ち負けの話をするためにオリンピックへ行ったんだから、負けてもガッカリして貰えないのはその競技者が未熟だかだからです。ルーキー選手の経験値稼ぎという意味合いもあります。次期オリンピックを狙うために大会を経験するのはアリです。
逆にスキー女子ハーフパイプのエリザベス姉さんのような、ハーフパイプのトリックを一つも出来ないのにちゃっかり出場しちゃう猛者もいます。エリザベス姉さんは多分滑れないんでしょうが、横倉の壁でビビったことのあるスキーヤーならばハーフパイプのスタートがいかに怖いか想像できます。この事件?は世界中で賛否が割れていました。ルール上のインチキなしでオリンピック代表になったんだから、彼女のセコさも含めて賞賛(失笑)に値するという意見。それからスポーツ競技を舐めるなっていう意見です。エリザベス姉さんはハンガリー代表だから面白バナシなんですが、彼女が日本代表選手だったら笑えない話かもしれません。

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 話を障害者スポーツに戻しますと、スポーツは福祉なのか競技なのかの線引きをハッキリ聞いたことがありません。すでにパラリンピックの選手がスゴいことは周知の事実で、とくに絶対王者の西岡桃佳さんや新井佳浩さん、緑夢クンなどスゴいです。彼らが健常者と対等にスゴいのか?健常者以上にスゴいのか?障害者だからスゴいのか?障害者の割りにスゴいのか・・・?
平昌オリンピック・パラリンピックの始まる前は「実際に競技を観ればそんな理屈は関係ない」っていうマスコミの表現が多かったです。しかし多くのマスコミも健常者の競技と障害者の競技は同等なのか対極なのか説明できていません。「そういう区別なく応援するのがバリア・フリー」みたいな流れではありますが、開幕してからは結果の報道ばっかりで「昨日の西岡桃佳観た?」っていうような世の中の盛り上がりがあった分けでもないようです。それでも肯定的に取り上げないとダメっていう風潮はあります。
健常者競技も障害者競技も区別ないという言い方に釈然としないのは、もしかしたらどう応援していいのかが判断できないからだと気づきました。簡単な例でいえば『競技中に失敗して入賞を逃しちゃった選手に「あー、もう・・・」って言ってもいいのか?』ていう問題です。
アスリートが頑張ってきたことに対しては全ての選手が共通ですから、頑張ったこと自体で優劣をつけるのは無意味です。だから高木美帆さんでも高梨沙羅さんでも「あー、もう・・・」って言っちゃうんですよね。とくにノルディックの渡部暁斗さんへの「あー、もう・・・」という落胆は、今大会一番のがっかりシーンでした。(アノ黒い三連星に抜かれたシーン)つまり、障害者スポーツの観ている時にもガッカリしていいのか?っていうのが問題のすべてのような気がします。

 すべてにおいて競技で失敗した選手を罵倒していいわけはありません。そんなことは長年スポーツを観戦してきて実感してます。しかし上記の通りに観戦が父兄参観になっちゃうと、それはもう選手と観客が対等な立場じゃ無くなっちゃいます。この場合、対等じゃなくなるというのは健常者の観客が障害者の選手を見下してしまうとういうことです。運動会の構図は父兄(有能者)が児童(未熟者)を見下ろすという図式だからです。逆に羽生結弦さんの演技は見上げていました。
障害者スポーツの選手が転倒した時に「いーよいーよ、気にするな」っていうのは正しい反応じゃないように思います。それは4年間の努力のすべてを気にしていないって言ってるようなものだから。でも、その4年間の努力の中に競技者としての努力と障害者としての努力が含まれてる場合に、どっちの努力と転倒を結び付ければいいのかが判断しづらいんです。
過去に「24時間テレビ」を感動ポルノとデスったNHKの「ハートネットTV」でも放送で然したる見解を出していません。以前に成田緑夢さんが障害者のスノーボードの楽しみ方や観戦のポイントを話していました。この番組自体が福祉関係者(障害者、家族、支援団体など)に向けた番組なので、ノンポリの健常者の目頭が熱くなるような内容は極力排除されています。そーいう苦労話はNHK の言う感動ポルノだしね。だから「カーリングの石って20㎏もあるんだよ」と同じノリで、障害者のスノーボードも普通にウインタースポーツの一つっていう感じでした。障害者が健常者中心の社会に壁を感じているように、健常者側にもどう扱えばいいのか判らないという壁を感じています。ましてや「スポーツに健常者も障害者も区別はない」という前提を出されたって、結局それって「福祉なの?」と「スポーツ競技なの?」っていう問いは「考えること自体が差別」っていう言葉で闇に葬っちゃうのかな? 障害者スポーツの中には欠損部位を機械で補うことが普通にレギュレーションになっている種目が多いです。しかしそれは従来のスポーツを観てきた人にとっては、フェアな競技なのか?っていう印象もあります。そこまで頑張ることが他の障害者の希望になるという目的なら、やっぱり福祉なのかって思います。

 成田緑夢さんはもともと競技者だったが練習中の大けがでオリンピックは絶望になりました。しかし彼はあきらめることなくパラリンピックで競技者としても復活しメダリストになりました。それ自体が賞賛なんですが、彼の『障害者スポーツのレギュレーションの中で、同じ条件の他の選手よりもより高く、より華麗に演技できたこと』を賞賛するのか?『障害を克服して世界の舞台に戻ってきたこと』を賞賛するのか? または『戻ってきたけど活躍はできなかった選手』も賞賛でいいのか? 出場する全てのアスリートをリスペクトして、健常者も障害者も隔てなく賞賛に値するのならば、出場だけを目的だったちゃっかりエリザベス姉さんも賞賛しちゃっていいのか?
障害者スポーツという言葉が腑に落ちるのは、成田緑夢さんのケースのような本来アスリートの人が競技を続けるというカタチです。逆に両ヒザを手術しているゴン中山雅史さんのような、リアルに障害があるのに現役サッカー選手を続けている人は十分に障害者スポーツだと思います。ヒジをこわしたピッチャーや靱帯をやっちゃったバレーボール選手など、健常者スポーツの世界には障害者スポーツをやってる人がたくさんいます。彼らの頑張りに勝者よりも声援を受けることは多々あります。それは彼らコンディションに恵まれた選手と同じルール下で戦っているからです。当然ながら現在出場もままならないゴン中山には賞賛はありません。現在所属しているアスルクラロ沼津のサポーターにもきっとゴン中山は愛されてることでしょう。でもゴン中山が試合に出場したら「中山使ってる場合かよ、真面目にスタメン組めよ」ってなるように思います。それはスポーツの判断基準が努力の度合いではないからです。そしてこの部分がシナリオのないスポーツの醍醐味でしょう。このシナリオに特化して楽しい世界を作っているのがプロレスの世界です。遺恨とか怪我からの復帰をファンと温かく共有して楽しんでいます。

 結論をいえば「お前みたいな卑屈な人間が障害者スポーツの発展の障壁なんだよ」ってことなんでしょう。自覚してますが、東京パラリンピックを楽しみだなって思ったこともありません。これだけ書いても自分が何に納得できないのかが上手く説明できているといも思えません。しかしマスコミの中にも言葉狩りを恐れて『オリンピックと発音したらパラリンピックも言わなきゃいけない』という空気が喋らせているって感じもかなりしてました。もしかしたらみんながパラリンピックっていう言葉をどう発音したらよいのか決めかねてるんじゃないでしょうか。
日本は2020年にはホスト国としてパラリンピックを向かえます。日本人の本質は世界中でも類を見ないほといい人たちの集まりだと思っています。しかしキリスト教系の国の人たちはこーいうイベント化された福祉がとても上手です。世界の目を意識すれば「日本人はパラには関心がなかった」っていうのもマズいでしょう。とにかく観る側の意識を変えなきゃいけません。しかし障害者というフレーズにアンタッチャブルなニュアンスがある間は浸透しない気がします。それとコメンテーターも「パラリンピックは認識していて当然」というスタンスをやめるべきです。当然を装うのなら障害者スポーツとどう接すればいいのかを説明してくれって感じです。

 東京のバリアフリーのインフラ整備の話ですが、鉄道のホームドアの設置は2020年までに全駅で設置の義務化を法律で作っちゃえばよかったと思います。東京近郊が全て設置されれば他の地域も順次広がっていくでしょう。設置出来ない理由は各社いろいろ言ってるんでしょうが、こーいうのは法律と期限を設けないと進まないんでしょう。設置費用は都心の鉄道会社はみんな不動産屋なんだから土地を売ったり買ったりすればなんとかなるでしょう。特にJRは山手線で出来たことがなんで総武線や京浜東北線で出来ないんだ?
あとオリンピックのボランテア・スタッフには日当を払ってあげて欲しいです。日本人だけがボランテア=無償提供と誤った訳をしています。ちゃんと金を払えば夏休みにヒマにしてる若いのがいっぱい集まります。彼らの世代がオリンピックに関われるチャンスが増えることが日本開催の最大のメリットだと思います。ヒマにしてるおじいちゃんやおばあちゃんもいっぱい集まってくれそうですが、何しろ日差しがたいへんだから救護室の仕事を増やしそうです・・・


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BLマンガの参考書 - 2018.03.11 Sun

ゆうきまさみ さんの「でぃすXこみ」です。

 前回の記事は山本崇一朗さんがデビュー時から商業誌ベースでヒット作が生まれる過程を、彼自身の黒歴史的な過去作品集で学ぼうという内容でした。普通の読者やマンガファンはプロ野球の2軍の試合にまで着目する必要はありません。でも一流選手が下積み時代にどんなトレーニングをしてエースや強打者になったのかを知るのは、プロを目指す人にとっては参考になると思います。
個人の意見ですが、マンガの専門学校みたいなところで月謝を払って教わるというのには反対です。たかだかマンガという資格でも何でも無いモンのために高い月謝を払うってヘンでしょう。不幸なのはその無意味かも知れない月謝を多くの場合は親御さんが払うところです。バンドマンを目指してる若者がスタジオ代を親に出してもらうのは「ふざけるな」って感じです。専門学校は論外?としてもマンガを描く仲間との切磋琢磨も、仲よし同士だと相手の作品を切れないしみがくことも出来ません。批判すると仲間じゃなくなっちゃうからね。
マンガの描き方というのはあくまでも独学が基本です。独学であれば参考になる文献でもプロの作品でも市販のマンガの指南書でも、役に立つと思える方法だったらどんなカンニングでもOKです。自分が一番オススメな方法はマンガをしっかりと読むことです。マンガのルールはマンガを読んで学べばいいという発想です。東大に入るスゴい頭のいい人の中に『勉強は教科書を何度も読んだだけ』っていう人がいます。コレこそが理想なんですが現実はそんなに簡単ではありません。マンガを読みながらマンガの描き方が判る、参考書になるようなマンガがあればいいですよね。そーいう横着な人向けにいい作品があります。それがゆうきまさみさんの「でぃすXこみ」です。学生は春休みというもっともモラトリアムな時期なので、この機会にマンガ家を目指してみてはどうでしょう・・・

 前回に取り上げた山本崇一朗さんの短編集は、作品作りのノウハウより『つまんないマンガ~マシなマンガ~ヒット作』という進化の流れが判るモノでした。過去に成功したマンガ家の作品を見ながらどーいう方向に進むべきかがテーマで、正直いってコレを読んでもマンガが上手くなる方法は見つかりません。上手くなるには考え方を切り替えなきゃいけないということが判るだけです。
しかし今回の記事で取り上げる「でぃすXこみ」は、より具体的にマンガ家志望の方々の参考になる教材になると思います。メインになるのはキャラの設定の仕方、ネーム(マンガの構成)の作り方やデビューから連載への流れについてなど、実践的なテクニックが描かれています。教材といってもちゃんとしたストーリーマンガなので『プロマンガ家を目指そう』という特殊な人種以外でも十分に楽しめる作品です。しかし作者のゆうきまさみさんがマンガシナリオのテクニックを惜しみなくぶち込んでいるので、マンガの教則本以上に役に役立つ内容です。たぶん、そーいう意味合いを強く出す企画のマンガだったんでしょう。

 お話の内容は『主人公の女子高生かおるは少年マンガ家を目指していたが、実兄の弦太郎が勝手に妹の名で少女マンガ誌へ投稿したBLマンガが新人コミック大賞になる。かおるは編集部や担当にも隠してBLマンガ家として作品を描き続けることになるが、かおるのマンガ脳は少年マンガなので思うようにBLが描けない。それを弦太郎が指導する形で二人三脚のマンガ制作が始まる・・・』
教材としての流れはマンガのテーマが決まる~かおるが自力で考える~弦太郎のアドバイス~っていう感じです。かおるはマンガが掲載されるレベルなのでアドバイスも「主人公の顔を大きくアップで目立たせる」とか「キャラは左から右へ走らせる」などという初めてマンガを描く君へって感じの指摘ではありません。この展開にそのシーンは必要か?っていうような実践的なアドバイスです。各話ごとのオープニングでその回のストーリーで担当が出す読み切り作品のお題をマンガ化したシーンが描かれていいます。これは例題、添削、模範解答というメソッドですね。過去のマンガ教則本では最後の模範解答を提示していないんですよ。よく聞くフレーズで「マンガに正解はない」っていうのがあります。でも教則本を作っておいて正答を載せないっていうのはあり得ません。過去の多くのマンガ教則本はマンガ家じゃない人が書いています。元マンガ家やマンガ編集をかじった人、あやしい専門学校の講師などかな?彼らに共通するのはマンガの描き方は説明出来ても、マンガ自体は描けないところです。書道のテキストに止めや払いの解説が載っているけ著者のお手本が載っていないのは変でしょう。既存のマンガのシーンをお手本に使えば簡単なんですが、ソレでは権利関係が簡単にはいきません。
専門学校がどーやってマンガを教えてるのかは謎なんですが、講師に現役のマンガ家が名前を連ねてる場合は自身の実践的な原稿で教えてるのかな?そうでなければ「マンガに正解はない」って教えてるのか?マンガこそ正解だけがマンガという厳しいジャンルなのだから、正解を求めない人は美大へ行って芸術家にでもなればいいのにねって思います。

 ゆうきまさみさんは「月刊OUT」出身で、当時のリアルオタクの最大の成功者の一人です。それまでのマンガ家というのは落語家に似ていて師匠に弟子入りして下積み(アシスタント)を経て、プロ原稿が書けるようになったのちデビューするのが一般的な認識でした。いわゆる内弟子制度ですね。投稿マンガはそのヤヤコシイしきたりや人間関係を省いて実力でデビュー出来る魅力がありました。でも現実は受賞後に修行があるんですけどね。そんな中でゆうきまさみさんやあずまきよひこさんは「ラクしてマンガ家になれる」憧れのオタク成功者でした。両者とも名前の字面もねてますね。オタク、同人誌系のマンガは「自分の趣味で描く」と「マンガに正解はない」で成り立っています。でも正解を知っていたらメジャープロマンガ家になれるっていうことです。
ゆうきまさみさんと同世代のオタクマンガ志望者で、マンガの正解を見つけることに人生を捧げたのが島本和彦さんです。ある意味「アオイホノウ」もマンガ参考書に成り得るけど、雑音の部分が多すぎて役には立たなそうです。

 ずーっと自分のブログで警鐘を鳴らしてきたことなんですが、マンガの専門学校の問題は受講内容に伴う稼働かは別にして受講料がアホみたいに高いことです。「マンガ専門学校比較ナビ」というサイトで調べたら、だいたい2年で100万コースでした。全行程で20万くらいに収まるんだったら専門学校という選択も有りだと思います。モラトリアムの言い訳にするために親を騙す口実だとしたらさらに割高です。あとマンガは才能勝負の世界なので同じ志望の人たちの中で優劣がハッキリすると、強靱な心臓の持ち主でなければ心が折れます。逆に心が折れない優しい指導をモットーにしてるのなら役に立つ授業なのか疑問でしょう。
その点ゆうきまさみさんの「でぃすXこみ」は、630円+税の3巻セットで合計1890円+税です。もし自分の役には立たないって思っても、マンガ家志望の方が読むストーリーマンガとして十分に面白いです。2000円くらい出すんだったらそれこそマンガの教則本が買えるんだけど、そっちを買うんだったら「でぃすXこみ」のほうがオススメです。

 それから本題?のブログタイトル「BLの教科書」ですが、一番オススメしたいのが現役で趣味のBLマンガを描いているお姉様たちです。あえてBLというジャンルを説明するつもりはありませんが、圧倒的に趣味に片寄ったジャンルといえます。
趣味的な嗜好ゆえに個人のイマジネーションに引っ張られ傾向があります。いわゆるワンパターンですね。それぞれのお気に入りのカップリングがあろうことでしょう。あえてカップリングについて説明するつもりはありません。各話のエピソードタイトルはCPになっています。2話は愚王X賢臣、3話は委員長X帰宅部員、4話は師匠X弟子・・・昨秋で編集長が気に入った犬X主人なんていうひねったCPなんかもあります。それぞれのBL作品をオールカラーで3ページ掲載されています。カラー担当はオノ・ナツメさんや雲田はるこさん、いくえみ綾さんなど各話ごとに違うマンガ家さんが担当しています。カラー原稿マニア?にとっても楽しい作品です。
自分のBLのシチュエーションを広げるにしてもオススメです。掲載が青年誌よりなんですが、BLに体するネガな扱いは一切ないので安心して読めます。本編で「担当の八反田女史がでぃすXこみ(BLマンガ)を描いてきたのが男だったら、わたしが真っ先にドン引き・・・」って描いています。それを描いているのがゆうきまさみさんという男なのが面白いところですね


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少年マンガの過去問 - 2018.03.03 Sat

山本崇一朗さんの短編集「恋文」と裏短編集「ロマンチック」です。

 山本崇一朗さんといえば「からかい上手の高木さん」がスマッシュヒットしている、本格的な少年マンガ家です。山本崇一朗さんは以前の記事で「ふだつきのキョーコちゃん」を取り上げました。このときは「からかい上手・・・」はアニメ的な可愛さではないからアニメ化には向かないって書きました。実際にアニメ化される時代が来るとは思っていませんでしたのでビックリです。西片君を映像で観る勇気がないのでアニメ版は一切観ていません。西片君を観る勇気とは新海誠作品のモラトリアムな若造キャラを観るこっぱずしさです。不思議と読む分にはいいのですが、中学生の思考を映像でみるのは恥ずかしくて絶えられません。マンガは黙読だけどアニメや映画は朗読だからかな?

ふだつきのキョーコちゃんについての記事はコチラです→「妹がキョンシー?」

この記事では「妹がキョンシーという設定が利いているのか?」という根本的な問題を書いてます。でも多くはテンテンちゃんのハナシですけどね。記事の冒頭で「山本崇一朗さんは片山ユキヲさんのアシスタントを経て、読み切りでキャリアを積んだのち「からかい上手の高木さん」でメジャーに・・・」って書きました。まぁ資料を読んで書いたんですけど、今回はこの『読み切りでキャリアを積んだ』の部分についての記事になります。
「からかい上手・・・」のアニメ化にともない“今だっ!”と考えた小学館が「からかい上手・・・」の新刊に混ぜて2冊の読み切り短編集を出しました。それが短編集「恋文」と裏・短編集「ロマンチック」です。この2冊は未発表作も含めて山本崇一朗さんがメジャーになる前の、プロマンガ家のキャリアを積む過程に発表した作品たちです。高木さんっぽいのやら、キョーコちゃんのプロトタイプやらが読み切りで描かれていたりしてファン必読の短編集です。山本崇一朗さんの身内や関係者、大ファン以外の「高木さん・・・って面白いよね」っていうくらいで読んでいた普通のマンガファンやアニメで知ったファンにとってはそんなに面白い短編集ではありません。コレクターアイテムとしてマンガを集めてる方以外には,買ってまで読むほどの作品は載っていません。

  ブログ画像 山本崇一朗 JPEG

 マンガの短編集には短編のほうが得意なマンガ家タイプ。超メジャーで安定のヒットメーカーが連載の合間に描きためた短編をお蔵だしタイプ。そして売れなかった頃の単行本未掲載作やボツになった未発表作を集めてエイヤって売っちゃうタイプの3パターンがあります。
短編マンガ家は短編こそ本領ですからOKです。メジャー長編マンガ家の中に長尺なら魅力があるけど短編は要領を得ないマンガ家も多いです。このパターンはファンなら買い、長編の作品のみファンだったら様子見もありって感にです。典型例は短編がより面白い高橋留美子さんと、短編だと定型文的な作風がより目立っちゃうあだち充さんです。
問題は未発表作品集とオビに書かれてる場合で、このパターンの短編集は往々にして1冊まるごと面白くありません。マンガの大原則は「面白い作品ならとっくに発表している」ということです。たとえ現在が売れっ子マンガ家であってもガッカリな内容のことは多いです。それを読んで偉大なヒットマンガ家の足跡をたどるのもファン心理でしょう。でも一般の人がお金を出してまでつまんないマンガを読むのも本末転倒です。一般のマンガファンをダマするテクニックとして、カバー(表紙)の絵を現在の絵柄にして新作感を出す(中身はほぼデビュー直後の定まらない作画)とか、巻頭に数ページのやっつけ書き下ろしマンガを載せるなどがあります。
今回取り上げる「恋文」と「ロマンチック」は完全に未発表短編集のパターンです。実際には既出の作品が多いのですが、普通の読者の目に触れなかったマイナーな処遇の作品を集めた感じです。この2冊は山本崇一朗マニアを自負するのでしたら是非揃えたいコレクターアイテムです。でもそれ以外の普通にマンガを読んで楽しみたいっていうライト層?の方々には、無理して読むほどでもないかな?って感じです。表紙が書き下ろし(現在の絵のタッチ)で、中身のマンガ本編はデビュー時の雑なタッチという短編集のダマしのテクニックも使っています。引っかからないよう注意です・・・

 しかし、この短編集は1部の方にとってはとても役に立つ使い方ができます。むしろ必読の書といっても過言ではありません。どんな人が読むべきなんでしょうか?それはこれから少年マンガ家を目指す人たちです。そんな人はマンガの読者人口から考えて極めて少数派なんですが、近年のマンガの教則本の量を考えるとニッチと切り捨てられない需要はあると思います。都会の本屋さんにはマンガの描き方とか、女の子キャラの描き方とか、BLの描き方とかがたくさん並んでいます。とくに最近ではBL多めのイメージ。イラストやマンガ絵の描き方はともかくとして、マンガの描き方はソレらの教科書を読んで面白いマンガが描けるようになるとは思えないモノが多いです。中には菅野博之さんのシリーズのような、相当ぶっちゃけた内容でマンガの原理原則を説明している名著もあります。
マンガの描き方の本の欠点は『マンガはこういうやり方で描く』とは書いてますが『こういう描き方はダメ』とは書いてくれないところです。教則本だから基本的な描き方は書いてありますが、マンガを面白くする方法は書いていません。野球の教則本にフォークボールの握り方が書いてあるけどフォークボールを使った配球の組み立てが書いてないのと一緒です。
一概にマンガを描くといっても「何処で誰に向けて描くか、どのレベルで描くか」によって習得しなきゃ行けないスキルが違ってきます。大きく分けて一般漫画誌、マイナー漫画誌、ネットマンガサイト、コミケ系同人誌、個人のネット配信、マンガサークル内での回し読み、近所の友達への見せつけ、読者はお母さんや兄弟姉妹・・・上は億の収入になるベストセラー作家から制作費や生活費がカツカツというマイナー作家、コミケやネットで小遣い稼ぎができれば、読んで貰えるだけで本望まで、様々な目的があります。一概のマンガの描き方といってもこれらの要望に全て応えるガイドブックは無理です。「・・・の80を切る練習法」みたいなゴルフの教則本を読んでもプロゴルファーにはなれません。

 では、この短編集はどこが必読なんでしょう?それはこの本は『投稿マンガが不採用になる原因、そしてどこを修正すべきか』が判るからです。読む順番は「ロマンティック」からがベターです。2冊買うのが面倒くさい(もったいない)のなら、投稿マンガを描くために勉強したい人は「ロマンティック」短編マンガを楽しみたいなら「恋文」がオススメです。勉強のためなら「ふだつきのキョーコちゃん」と「からかい上手の高木さん」の1巻も合わせて読むことがベストです。
山本崇一朗さんはガチガチの少年マンガかなので少年マンガ誌や青年誌にかぎっちゃうんですが、マンガの教則本が受験の参考書だとしたらこの短編集は過去問題集になります。山本崇一朗さんが投稿マンガが入選作やリテイクされ修正された読み切り作品の歴史が読み取れます。作品ごとに「初めてネームが通った作品」とか「初めてトーンを使った作品」とかセルフ解説付きです。
多くの投稿マンガは意味不明な自己オリジナリティーか、何度も焼き直されたありふれた作品に分類できます。最初に作った作品が大ヒットっていうのは希有なことです。出版社も新人賞にそんなことを求めていないようです。そしてキャラクターが描きたいのか、ストーリーが描きたいのかに分かれます。キャラクター主義の方はキャラを大きく描きたがり、不思議な決めポーズや絶叫系のセリフでマンガを終わらせようとします。ストーリー重視の方は読者が納得できないような屁理屈やご都合主義で勝手の物語が終わっちゃいます。
山本崇一朗さんの場合はデビュー時には「それでも町は廻っている」の石黒正数さんのようなマンガを描こうとしていたようです。きっと新人マンガ賞にはたくさんのエセ石黒正数作品が来るんだと思います。ページ数が限られた中でストーリーを作るとなるとどうしてもショートショートに手が出ちゃうけど、ショートショートは相当練り込まないと面白くなりません。でもエセ石黒さんマンガはエセ冨樫義博マンガよりもマンガが描けそうな可能性があります。本屋さんに並んでいるたくさんのマンガの教則本はエセ石黒マンガの描き方までは指南してくれます。でもシナリオの項目に起承転結の説明が書いてあるような教則本では無理ですけどね。

 多くのプロ志向マンガファン(まだプロマンガ家ではないカテゴリー)にとっては、自分の描いているエセ石黒マンガをどーすれば「からかい上手の高木さん」に出来るのかがしりたいんです。菅野博之さんはソレを書いた教則本を出していたんですが、かなり厳しい内容になっていたと思います。
あえて細部には触れませんが山本崇一朗さんの場合は投稿マンガ家時代には、マンガのアイデアとは起承転結の“起”と“結”のことだと思っていたフシがあります。これこそ起承転結マジックで「どう始まるか」と「どう終わるか」はアイデアではなくて前後の整合性によって決めればいいことです。描きたいのは“承”の事件の成り行きと“転”の物語のクライマックスです。ちなみにエセ富樫マンガの場合は“起”だけでページの大半を使っちゃって、“承” “転”がないまま“結”っていう感じが多いです。
キャラにしても投稿マンガ家は「マンガは個性的なキャラを描かなきゃいけない」という思い込みが強いです。ヘンなキャラ=個性的というのは某・猫型ロボットなどの考え方です。みんな児童マンガが描きたくてマンガ家を目指してるわけじゃないはずです。

「ロマンティック」のほうに山本崇一朗さんの投稿作品が載っています。「IKKI」と「ゲッサン」に投稿していて、両方の入選作が並べられています。多分それぞれの編集者とコミュニケーションを取りながらの投稿だろうから、編集部ごとのマンガの評価の仕方の違いがわかります。よく「IKKI」の掲載マンガが陥っていたのは、マンガ家の思い込みを正そうとせずに新人の個性みたいな売り方をしていたことでしょう。山本崇一朗さんが描いた「IKKI」の受賞作も、キャラが「何言ってんの?」っていう感じの独りよがりっぽい作品です。すでに「IKKI」は廃刊してるのでいいますが、マンガのコマ割のルールがわかれば誰にだって「IKKI」っぽいマンガは描けます。(多分・・・)昔は「ガロ」が担ってきた「ヘタウマ・マンガ」の受け皿を「IKKI」がやっていたんでしょうね。
「ゲッサン」で新人賞になったほうの作品は、のちに「からかい上手の高木さん」につながる小学生が主人公のマンガです。「ゲッサン」は知名度こそアレですが大手一般少年マンガ誌です。山本崇一朗さんの場合は「IKKI」から「ゲッサン」への流れが重要です。多くの投稿マンガ家たちは「最初はIKKIでもいいや」とか「自分のような個性的なマンガはIKKIでしか理解してもらえない」っていう言い訳を用意してます。しかし「ロマンテック」と「恋文」は、ちゃんとした少年マンガを描きたいのなら「IKKI」ようなマンガを描いてちゃダメだっていうことを教えてくれています。
ちゃんとしたマンガとは面白いとか売れセンとかではなくて、文字通りにちゃんとマンガの形式になっている作品のことです。

 マンガは感性と技術の両方を必要とします。そのうち技術のほうは比較的マンガの教則本が役に立ちやすいです。ネームや作画の作業に関わる部分のノウハウは知識の積み増しが通用するからです。ストーリーやセリフ、ユーモアの部分は制作者の感性によるところが大きいので教則本の苦手な部分です。しかしこーいうセンスの部分にしても新しい発明や発見が必要なわけではないので、ちゃんとしたマンガを読めばそこに必ず答えが入っています。なぜならそーいうセンスがいいのがちゃんとしたマンガだからでしょう。
昔から気になっていたのはマンガ家を目指す人の中で他人(プロ)のマンガを読んでいないだろうなぁって人が多いこと。自分が描いたマンガがプロの描いたマンガとどう違うのかが判っていないからボツになるんでしょう。自分の作品を描く前にプロとどこが違うのかが判れば面白いマンガが描きやすいと思いますよね。誰でも目標にしているお気に入りのマンガ家はいるんだろうけど、好きなマンガ家の作品しか読まないのでしたら普遍性の勉強にはあんまりなりません。そのマンガ家の二番煎じにはなれるかも知れませんけどね。あと、なるべくなら同人誌系のサークルの仲間の作品を読み合うのもやめたほうがいいです。プロ同人作家を目指すのなら友達も大切ですけど・・・
山本崇一朗さんの短編集は作画やシナリオなどの技術的な進化も見ることができます。でもそれよりもアイデアを出すことで精一杯だった投稿マンガが、読者を楽しませることに工夫しているマンガに変化していく過程を見ることができます。これは過去に成功したマンガ家が解いてきた問題集のようなもんです。この2冊にはこーすればメジャーマンガが描けるという成功例が詰まっています。

 最後に過去問の回答例を挙げておきます。

裏・短編集「ロマンチック」の中の「歯は上に投げるもの」は「IKKI」で受賞した作品です。現在の山本崇一朗さんの描写に比べたら絵の荒さは仕方がないです。ソレよりもビルの屋上から飛び降りてくる女の子という状況が『何やってるのかわからない』です。ソコが「IKKI」の話にならないところなんですが、受賞しちゃうんだから廃刊になるわけですね。タイトルの歯は上に投げるものというセリフがこのマンガのアイデアなんですが、ありがちなマンガのアイデアの思い違いの例です。
これが短編集「恋文」の表題作「恋文」になるとより明確なマンガになっています。好きな子に自分の友達宛のラブレターを渡されて、でもソレは勘違いで・・・っていうややこしいけど判りやすい恋愛マンガの古典なストーリーです。まず意味不明な行動をするキャラや理解しがたいセリフは一つもありません。誰もが知ってるような展開だから安心して読めます。それゆえに愛着がわくキャラになっています。この愛着がわくキャラこそが「からかい上手の高木さん」のベースになってるものです。
「恋文」は読み切り少年マンガとして十分に成立していますが、この中にも「からかい上手・・・」では改善された部分があります。クライマックス手前で主人公が女の子に追いかけられるシーン。このシーンはアニメ的なアクションシーンなんですが、「からかい上手・・・」では使われていません。マンガはアニメじゃないんだからアニメのように動いても意味が薄いんです。効果的な使い方もあるけど。
「からかい上手・・・」ではより効果的にマンガ的な動きが描写されています。それはまさしく短編集と「からかい上手の高木さん」を読み比べれば実感できます。


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マンガを描くという事を目標にして
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